第三十四頁【生霊】


   【生霊いきりょう


 旦那との馴れ初めは、恥ずかしながら略奪愛でした。職場の付き合いでバーに来た彼に、私が一目惚れしたのです。

 その当時、旦那には既に心に決めた人が居たにも関わらず、私は彼を奪ったのです。

 彼はまだ結婚三年目で、当時の妻との間には産まれたばかりの幼子もいました。

 奥さんは専業主婦で、彼の収入に頼り切った生活をしていたのに、私が生活の主軸になる人を奪ってしまったのです。

 彼女がいま、幼い息子と何処で何をしているのか、それは旦那にもわからないそうです。

 そういう、ひどい別れ方をしました。

 彼女には慰謝料も支払いましたが、それだけでは数年と保たずに底を尽きているでしょう。

 私がこの話を打ち明けるのは、彼女と、そしてその息子に、心より懺悔したいからなのです。


 理由が理由でしたから、私達はほぼ駆け落ちの様な形で町を出ました。今では誰にも行く先を告げずに、あの町からもっと遠くに住んでいます。

 私達は両親や親戚に職場に友人、繋がりとなる様なものも断って町を出たのです。

 あの頃は良かった。あの頃の私達はとても情熱的で、まるでドラマの中のワンシーンに入り込んだかの様に自分たちに陶酔していた様に思うのです。

 すべてを捨てて、新しい町へ。責任から逃れ、新天地での生活が始まりました。

 元々大手の企業に勤めていたからか、旦那の再就職は思っていた以上に簡単に決まり、私達の生活はさほど困窮する事もなく軌道に乗りました。

 アパートからすぐにワンルームのマンションに引っ越して、それから数年してから、それなりの広さのマンションを購入して腰を落ち着けました。

 そして、彼とこの町に来てから八年。旦那の収入だけで充分になったので、私は専業主婦として自宅のマンションでの家事を請け負う事になりました。丁度私のお腹に命が宿った事も理由の一つでした。

 辛かった仕事からも解放されて、まさに幸せの絶頂期ともいえる頃でした。


 ――彼女が現れる様になったのは。


 私が家で一人で家事をしている時、エントラスのインターフォンが鳴りました。すぐに応答してカメラを覗きましたが、そこに映り込んだ女性と思しき人物は、カメラに近寄り過ぎて表情が黒い影になるばかりでわかりませんでした。髪の長いシルエットが映るばかりです。


「はい、どなたでしょう?」


 返答はありませんでしたが、カメラの向こうに見えている黒い影のその口元が、歯を見せる様にして微笑んだのが見えました。そして一歩下がった彼女のみずぼらしいその格好、そしてその胸に布に包まれた……赤ちゃん? を抱くその全貌があらわになりました。


「みつけた」


 そう言われた時にようやく、カメラに映るその女性に、旦那の元嫁の面影を見た私は一方的にカメラを切りました。


「どうして? 見付かった? なんで今更?」


 ――ピンポン。


「ひっ」


 ――ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。


 押され続ける呼び鈴を、私は耳を塞いで耐えました。


 その晩、帰宅した夫に全てを話しました。しかし彼は、自分達に繋がる様な関係は全て捨てて、あの町から遠く離れた地に来たのだからそんな訳は無いと言い切るのです。

 人違いだと。

 でなければ、胸に抱いていたその赤ん坊は誰のものなのかと言う。

 確かに旦那が私と駆け落ちをした頃、まだ乳飲み子の息子がいました。けれどもあれからもう八年もの月日が経過しているのです。その子はもう立派な少年くらいになっている事でしょう。


 しかし、それからも彼女は、旦那の居ない昼中にうちを訪れては、インターフォンを鳴らすのです。

 そこに映る映像をカメラに収めたりもしたのですが、どういう理由なのか彼女の姿はカメラには映らずに、鳴らしている筈のインターフォンの音すらも聞こえないのです。

 まるで彼女の存在が私の中にしか無いかの様に。


 ――ピンポンピンポンピンポン、と私はノイローゼになっていきました。旦那に相談しても取り合ってくれません。おかしくなったのか? なんて言われたりもします。ストレスがかかり過ぎるとお腹の子にも影響があってさいあく生まれイデないとかムカツクこと言いまス。

 

 私は決して彼女が訪れても、エントラスのロックは解除しない様にしていましたそうすれば大丈夫ダカラです、

 しかしある時エントラスのインターフォンでなく、部屋の呼びりんがなった。

 アイツが、マンションの住人の出入りに乗じてエントラスを通り過ぎてうちの部屋の前にまで来たのです。

ワタシはドアスコープを覗きました。声を潜めて。


アイツガいました。アイツが胸に赤ん坊を抱いてわらっていて、こうこうとマンションの、電気が灯っているのにかかわらず何故か黒い影だけになって、胸に抱いた赤ん坊、赤ん坊ではなく、ちいさい子がごっこ遊びをする様な知育人形を胸に抱いて、微かに声に出しました。


「産ませないから」


ああ、この話をすると私はどうもおかしくなるのです。

それから毎日まいにちマイニチニチニチニチニチニチニチアイツが来るのれす。


 もうしばらくお腹の赤ちゃんがうごかないコト、マダ旦那に言えてない。


ゆるしてくだざい

 

――――――


生霊いきりょう


 生きたまま肉体と魂が分離して人に取り憑き、祟りを起こすものをいう。ただし祟りを起こすものばかりでなく、死の間際に親しい者の元に現れるものもまた生霊である。

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