第三十三頁【雪女】


   【雪女】


 毎年正月になると、祖母の家に帰省していた。

 ぼくの祖母の家は新潟県の山間にある村で、そこには美しい田園風景が広がっている。

 人家はそれぞれ広大な土地を持ち、互いに隣り合う事は無く、畑数個分程離して点々としていて、都会では考えられぬ位に贅沢に土地を使っている。

 この村は周囲を小高い山に囲まれていて高低差があるので、上から見ると田畑が段々になっていて面白い。

 今でも村の上の方に住む人達を「かみ」、下の方に住む人を「しも」と呼んで身分の差を明白にしていた名残があるが、この令和の時代においては「上」にも「下」にも差なんてものは無かった。

 側に雄大な山々の抜けて見える、大変のどかなこの村に、都会から正月の時期に一度帰省するのが、ぼくの毎年の楽しみだった。

 近くに緩やかな川の通るこの村にはよく雪が積もった。新潟県は国内有数の豪雪地帯で、ぼくの住んでいる都会とは比べ物にならない位に冷え込んで、特に寒い年になんかはぼくの背丈まで雪が積もったりするので、それ相応の防寒対策は欠かせなかった。


 これは、雪がぼくの腰程まで積もったある冬の体験談だ。


 細かな歳は忘れたが、その時はまだ父の運転する車に揺られ、フロントウィンドウから見える猛吹雪の景色と、スリップするスタッドレスタイヤに恐々としていた事を覚えているので、およそ小学校高学年位の頃だと思う。


 先に述べた通り、その時はぼくの腰ほどまで積雪のあった年だった。

 大晦日から年越しに掛けて大きな牡丹雪の見舞われ、外に出る事も叶わなかったけれど、新年を迎えたその日の昼頃には日が射して来たので、煌めく銀世界の中をぼくは一人で冒険に出掛けた。

 赤い毛糸の帽子をすっぽり耳まで被り、分厚い白のアウターを着込んで極厚の手袋を装着する。

 その当時、ぼくにとって雪はまだ珍しいもので、外に出ると庭先に停めてあった家の車の半分程までが雪に埋もれている光景は、なんとなく未知の、非日常感を覚えさせた。肌を切る様な、それこそ本当に耳が千切れてしまうかと思う程の極寒に身を浸しながら、白い息と共に長靴でザクザクと雪を踏んで行った。


 まだ誰も踏んで無い雪景気の田園を縫う様にしてぼくは、村の「上」の方にまで上って行った。そこからは、銀世界に覆われた山々と村の展望が見えて、何も成してはいないのに、まるで何かを成し遂げたかの様な感覚になった。

 見渡す限りの白の中には、人が誰もいなかった。風が吹くと、まだ固まってない雪の表面が粉の様になって舞い上がっているのが見えた。

 きらきらと舞う銀の風が。


 ……その時ぼくは、段々になった見渡す眼下の畑の中に、ポツンと黒い何かがたなびいている事に気が付いた。


 先程この風景を見渡した時には気付かなかった。

 いや、先程も確かにその辺りを眺めていたのだが、どうして気付かなかったのだろう。


 強い風が吹き始めた。

 雪が砂ぼこりの様になって一面を覆い始める中、細かな吹雪の様になった視界の中に、確かにが風に揺れている。


 雪のベールに包まれて判然とはしなかったが、白くなった田畑の一つの端の方に、自分から見て三十メートル程先になるその辺りに、雪に溶け込むかの様な白装束を纏った髪の長い女が立ち尽くしている。


 舞う雪の中に目を凝らして近付いて行った。

 その時のぼくは、あの人は何故呆然と、この肌を切る様な寒さの中、着物の一枚だけを着てそんな所に立っているのだろう、としか思っていなかった。


 何時までも吹き付けて来る不思議な風に包まれていると、どうしてか、先程まで晴れ渡っていた空の青ささえも消え去って、低い雲が垂れ込めていた。それが如何に不可思議な現象であるかを当時のぼくは気付く事は無かった。


 女との距離が十メートル程まで縮まって、ベールに包まれたその姿が少し明確になって来た。

 遠望している時から気になっていた腰の辺りの朱色は、てっきり着物の帯の様なものだと思っていたが、近付いてみるとそれが違うという事がわかって来た。


 臓物が、垂れている。


 白い着物の下腹部からじんわりと血が滲み出して、その穴から帯の様に垂れ下がる臓物が出ていた。


 ――あの女の人、怪我をしている。


 純粋にそう思った事を覚えている。


 ――事故にでもあったのだろうか? どうしてこんな雪の田畑の中に、そんな姿で一人立ち尽くしているのだろうか。


 俯いた表情は長い前髪に隠れて口元しか見えなかったけれど、その肌は白く生気の無い様に見えた。


 何があったにせよ、腹の中身があれ程こぼれ落ちてしまっていてはもう助からないという事は今にして思えば理解できるけれど、当時のぼくはそんな風には考えなかった。家に帰って救急車を呼んであげれば、まだ助かると思った。


 そうと気付いたぼくは、未だ吹き付ける雪の風の中で踵を返し、家の人に知らせに行こうと走り出した。


「ぼう……」


 後ろの方でそう呼ばれた気がして振り返っていた。


「ぼう…………ぼう……」


 見ると、風に髪をたなびかせて俯いているだけだった女が、ぼくの方に顔を僅かに傾けながら、腕を前に突き出して生白い指先で手招きをしていた。


 恐ろしくなったぼくは声を上げる事も出来ないでいた。しかしいま自分に出来る事と言えば、家の人に知らせる以外に無い事はわかった。


 女の呼び掛けを無視してまた踵を返していこうとしたその時――


 走り出そうとしたぼくの手首が、氷の様に冷たい何かに挟み込まれた。

 何故そんな風に思ったかと言えば、ぼくの手首を掴んだが異様に冷たかった事。分厚いアウター越しに掴まれているというのに、直接肌身に氷で触れられているかの様な奇妙な感覚を覚えたからだった。



   「ぼう」



 耳元でそう、凍て付くかの様な吐息を吹き掛けられた。

 おそらく、この雪の様に色を失っていたであろうぼくは、すぐ背後から耳元に囁いて来た女に、震えながら、緩々と振り返っていった。

 それは決して自分自らの意志でそうしたのでは無く、背後から、氷の腕に抱かれる様にして、ぼくの首は背後へと、無理矢理に振り返らされているのだった。


「……だ…………ぃ」



 なに?

 なんて言っているの?

 消え入る様なか細い声を上手く聞き取る事が出来ないでいた。

 やがて、一人でに動き始めた頭が、濡れた黒髪と、その下に見える女の口元を認めた――。



「おーい、あんまり遠くまで行くなよ」



 ぼくを探しに来た父親の声に驚いた。

 それはまるで異界に囚われていたぼくが、瞬時にこの現実世界へと立ち返って来たかの様な感覚だった。


「おーい、真っ白じゃないか、雪にでも飛び込んだのか」


 ぼくは荒ぶる息を整えるのに必死で、ぼくの体中に纏わり付いた雪を払う父親の声に言葉を返せないままだった。


 そこにはもう吹き付ける風など無く、家を出る時に見ていた青々とした空と、緩やかな白銀の風があるだけだった。

 女も、そこにはいなかった。


 帰ってから、さっきあった事を家族に話したけれど、笑われるだけだった。

 祖母なんかはそれは『雪女』だ。なんて言っていた。

 この地に語り継がれる『雪女』とは、子どもの生き肝を喰らい、凍死させるものだと祖母はぼくに語った。



 ……今にして思う。


 あの女の最後の囁いた言葉――


「……だ…………ぃ」




「ち…………ぅだ……」





   「



 では無かっただろうかと。


――――――


『雪女』


 恐ろしくも美しい雪の妖怪。その起源は室町時代に遡り、地域によっては『姑獲鳥うぶめ』と同一視したりする。『雪女』の伝承は各地にあるが、ほとんどが詫びしい男の話であり、思い描いた幸せは、雪のように溶けゆく幻想だという事であるらしい。


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