第十二頁 【窮奇】
【
新潟県に住んでいたCさんの話。
幼い頃の秋の日のこと、隣近所の友人宅からの帰り道での事だったという。Cさんは路傍にひっそりと石仏の祀られた四つ辻でつむじ風に吹かれた。秋の冷たい木枯らしに頬を撫でられて身震いすると共に、小さな体が浮き上がるのではないかと思う程の強風に煽られたらしい。
山間から吹き抜けて来る風が丁度その四つ辻の開けた地形に吹き降りて来るのか、地元の人にとってはそこらに強い風が吹くという事は有名な話でもあった。
「あんたどうしたん?」
Cさんが家に帰ると、玄関で出迎えた母親から開口一番そう言われた。
訳も分からず母の視線の先を探していると、見つけるよりも先に母の温かい手のひらがCさんの左の頬に触れていたという。
「切れとる」
氷の様に冷えた頬を母に撫で上げられながら、Cさんが玄関にある姿見を覗き込んでみると、確かに寒さで赤く染まった左の頬に、白い一筋の線が走っている。
驚いたCさんはたいそう慌てながらペタペタと顔に触れたらしいが、鋭く切り裂かれている割には傷からの出血は一切なく、皮膚一枚が裂ける程度でおさまっていたという。
思い当たる節がないとパニックになりかけるCさんを落ち着かせようと、母の手が肩に置かれていた。そうして笑って「
Cさんが何度も首を振ってそれを肯定すると母は――
「あそこにはカマイタチがおるから」と言った。
“カマイタチ”とは目に見えない怪異で、寒い日に現れては気付かぬうちに人を切りつけて去っていくという。
Cさんはその時に初めてカマイタチという妖怪の存在を知った。
「お母さんも切られた事ある?」と問うと「みんなあるよ」と事もなげに答えられたのだとか。
その後もCさんがしつこくカマイタチの事を尋ねていると、母がスマホで調べた画像をCさんに見せてくれた。
そこには随分と古い時代に描かれたとわかる妖怪画が表示されていて、両手が鎌になったイタチが中空で円を描く様が水墨画で描かれていた。そして左上には【窮奇】と難しい漢字が記されている。
「これでカマイタチって書くの?」
そう問い掛けながらCさんが画数の多い漢字を凝視していると、母は違うと首を振った。
「それはね、
ふーん、とCさんはわかっていないのにも関わらずにわかった様な返答をした。
「それじゃあ、私は良い人だから切られたんだね」
Cさんがそう言うと母は笑っていた。
――。
それから十年後、実家を出て東京の大学に進学したCさんの元に、母の凶報が届いた。
……母が、通り魔に刃物で襲われて重傷を負ったという。
何もかもをその場に残し、Cさんは新潟県の実家の近くの総合病院へと出向いた。
おっとり刀で駆け付けたCさんが待合室に居た父に縋って話を聞くに、母は顔と片口を大きく切り裂かれて道端に倒れている所を近所の村民に見つけられたらしい。その時点で意識は無かったが、命に別状はないという事だった。
父が言うに、「母さんは大丈夫だが、通り魔はまだ捕まっていないから村に帰ってはいかんぞ」という事らしい。
Cさんは深く安堵の息を吐くと次に、あんな田舎に通り魔がいるという事実に驚きを隠せなかった。何故なら近隣の顔ぶれは見知った者ばかりで、近所に観光地なんかも無いから、知らない車が停車するだけで目立つのだ。あんな僻地に車以外の手段で出向く事なども考え難いし、一体その通り魔は何処から来て何処に消えたと言うのだろう。
まさか村民に……? そう疑ってみたりもしたが、母は超が付くほどの善人で村人全員に慕われていた事を思い出す。
母の様な善人に恨みを持ち、害をなす人などとても思い当たらない。
……
その時になってCさんは昔、母から聞いた
「お父さん、お母さんが倒れてたのって、何処?」
「あの辻だよ。あの石仏のある四つ辻の所に倒れとった」
それを聞いてCさんは息を呑むしか無かったと言う。
程なくして意識を戻した母に通り魔の事を聞くと、あの辻で出会った事のない位の強風に煽られて、気付いたら意識を失っていたと言った。
通り魔などいなかったと言う。
だが母の肩とその顔に今も生々しく残るその大きな傷跡は、警察の見立てでもまず間違いが無く、
母はそれでも、斜めに切り裂かれた見るに耐えない顔で「誰も悪くないのよ」と笑っている。
――――――
『
・出現地域:中部、近畿地方
中国の妖怪である『
冬の寒い日に、知らぬ間に肌に切り傷出来ているのは『窮奇』が原因であると考えられていた。
悪神としても扱われる事があり、岐阜県飛騨地方では一人目の『窮奇』が人を倒し、二人目が切り、三人目が薬をつけて切れた体を繋げていくと言われていた。
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