第十一頁 【狸】

   【狸】


 徳島県に住んでいるAさんから聞いた話。

 Aさんは学生の頃、大学の近くに安いアパートを借りて一人暮らしをしていたという。

 ある日、アルバイトの残業をして帰りが真夜中になった事があった。Aさんは普段自転車で、大通りの方からアパートまで帰るのだが、早く帰って明日の講義の為のレポートを纏めたかったので、その日は裏道を使って帰る事にした。


 住宅街の中の坂を少し登ってから現れる左手の道に逸れて進んでいくと、やがて両脇を藪に囲まれた、人が一人通れる程度の細い道に出る。そこから程なく行くと段々と外灯の数も減って来て、鬱々とした山林に挟まれながら静かな暗闇に周囲を満たされて来る。遠ざかっていく住宅の灯を背後にしながら、Aさんは一人自転車のペダルを漕ぎ続けていた。

 自慢のロードバイクから発せられるLEDの白い発光だけを頼り、あまり舗装もされていないガタガタの細い一本道を走り続けた。こちらの道の方が自宅からアルバイト先までの距離は短くなるというのに、Aさんが普段この道を利用しないのは、単に道が細くて人とすれ違うのにも難儀するから、という理由があったらしい。

 その日の時刻は既に零時を回っていたので、こんな地元の田舎道を利用する者など自分の他にいないだろうと思って、その日はこの道を選んだという。


 ……だが白い発光の直線で闇を貫きながら、無心でペダルを漕ぐ事に執心していたAさんはある地点でブレーキを踏む事になったという。


 ――細い道の真ん中に突如、佇むスーツ姿の男の背中が現れたという。


 突如というといきなり現れた様に思えるがそうではなく、Aさんがそこに差し掛かるよりも以前から、上下紺色のスーツを着たその黒髪の男は、明かりも灯さずにそこに立ち尽くしていたのだという。

 白いヘッドライトで照らし出した男の背中を前に、Aさんは一度ブレーキを掛けてそこに停まるより他が無かった。


 ――こんな時間に人だ。


 ……Aさんは素直にそう思ったそうである。

 未だヘッドライトで照らしたままの男はどうしてかこちらに振り返る事もしないが、Aさんは男に少し道の端に避けてもらって通り過ぎようとしたそうである。だからベルを鳴らしながら速度を緩めて男の方へと近づいていった。


「すみません」


 かなりの距離まで接近したが、男は微動だにせずにこちらに背を向けたままだった。

 距離が近くになって来ると、今風に刈り込んだ短髪とその細身の体躯から、なんとなく若そうな印象を受けたが、男は未だ背中を照らされたまま、まるでマネキンであるかと思う程に動き出さない。どういう訳なのか脇を通り抜けるのも困難な細い道の真ん中で、こちらに背を向けた格好のまま立ち塞がっているのだ。

 Aさんは男を異様に思って目を凝らしたが、やはり吐息はしている様で、生白い首元が微かに上下しているのがわかった。当然マネキンなんかでは無い。


「あのー、すみません。通らせてもらっても」


 丁寧にそう言ったが、言葉が返ってくる事は無かった。

 どうしようかと考えたが、背後を振り返っても果てしない闇。この道をこのままあと数分行けば一度道が二手に分かれてから程なく自宅に辿り着くのだ。Aさんは引き返すというよりも、どうここを通り抜けようかという事ばかりを思案していたという。

 結局Aさんは半ば強引に、自転車に跨ったまま立ち塞がる男を迂回してその場をやり過ごす事にした。道の中央に立ち塞がる男で一杯一杯の道幅だが、徒歩ならばすれ違える程度の広さはあるのだ。薮に半身を擦られる位に端に寄ったAさんは側溝にタイヤをハマらせたが、すぐに手で引き上げてから再びペダルを漕ぎ出したという。


 男をどうにかやり過ごしてから、すぐに振り向くのは顔を覚えられそうで怖かったので、少し走り出してから振り返った。

 すると外灯のない暗黒の中に、やはり男のシルエットは立ち尽くしたまま固まっていたらしい。逆光になってその顔は影だったという。


 ――彼はいったいなんだったのか、と体に纏わり付いた草を払い除けながらまた風を感じ始めた。

 ……そして程なく行くと道が二手に分かれる……。


 A


 当然目を疑ったそうな。

 しかしどれだけ目を凝らしても、同じ男を鏡合わせにしたかの様に、どちらの道にもこちらに背を向けたままのスーツ姿の男が背を向けて佇んでいる。


 ――これはまさか、見ては行けないものを見ているのか? 


 Aさんはその時になってようやく危機感を持ったという。

 しかし、そこに佇んだ男はハッキリと存在しているし、年季の入った茶色い革靴を履いて、ちゃんと足だってあったらしい。

 いわゆる霊感というものにはおよそ関わりなく過ごして来たAさんにとって、その状況は十分にパニックに陥るに足る状況でもあった。けれどどうしてか妙に思考が冴えているのもあってか、目前のこの男達が、現実に存在する者なのではないかという考えもまた捨てきれずにいた。


 Aさんの自宅までは二手に別れたこの道を左手に行かなければならないのだが、今度は道幅が無さすぎて男の脇を通り抜けていく訳にもいかない。第一恐ろしくてもうそんな事は出来ない。

 腕に鳥肌を立てたAさんが引き返そうかと背後に振り返ると――そこで先程やり過ごした筈の男がまたAさんに背を向けて道を塞いでいた。

 ……声にもならない言葉が漏れたという。


 AさんはY字になったこの道で、同じ男の背中に行く手を阻まれていたのだ。

 恐々としながら正面へと向き直ると、左右の道に分かれた男達が、ゆっくりとこちらに振り返ろうとしてるのがわかったという。

 ――見てはいけない。

 そう直感して、Aさんは固く目を閉じて固まった。

 マウンテンバイクのハンドルを強く握り締めて、目一杯に顔を強張らせる。



 瞑った瞼の奥に光を感じて、Aさんは反射的に薄目を開けていた。

 すると左右に分かれた男達の居た辺りから、ポッと薄明るい青白の火が灯ってすぐに消えた。そうして足元の方で、小さなものが藪を掻き分けながら遠ざかっていく音がある。

 僅かに明滅した視界……するとそこに立っていた男達もまた煙の如く消えてなくなっていて、マウンテンバイクから伸びた白いヘッドライトの発光が照らしていたのは、ただの仄暗い細道であったという。


 胸を撫で下ろしたAさんは、カササと背後で物音が鳴ったのに気付いて振り返った――。


 ――こちらに向かって直立する、背後に佇む男はまだそこに残っていた。

 もうすっかりとAさんの方へと振り向いて、その顔を逆光で薄い影に染めていたという。


 そして男の青白い顔の中心が僅かに白く光り、目も鼻も口もない真っさらな肌だけが僅かに見えた。


 Aさんは魂を抜き取られたかのような衝撃を受けて自転車に跨ったまま転がって、そして再び顔を上げると、そこには本当にもう誰もいなかった。

 キャキャ……と何処かから犬の戯れる様な声がしたという。

 そして近くの薮からはやはり小動物が薮を駆け抜けていくかの様な物音があったが、Aさんはその場でしばらく腰を向かしたまま、振り返る事も出来なかった。



 この事と関係あるかは知らないが、その辺りには狸にまつわる伝承があり、小さな石碑も建っているのだと、あとからAさんに聞いた。



――――――



『狸』


・出現地域:全国(新潟県佐渡島、兵庫県淡路島、四国(特に徳島県)に伝承が多い)


「狐七化け、狸は八化け」ということわざがあり、狐よりも変化に優れる事で知られる。

 腹鼓を鳴らしたり、巨大な陰囊を被って人を化かしたり人に取り憑いたりする。

 酒蔵に「豆狸まめだ」(化け狸の一種で、西日本での化け狸の呼称)が住み着くと店が繁盛すると言われる。飲み屋に狸の信楽焼が置かれるのはこの為である。

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