第十頁 【垢嘗】
【
夜半、酒を飲んで眠っていた。
眠っている最中に尿意を催したので、ベッドから足を下ろし、寝ぼけた意識でフラフラとトイレに行って立ち小便をした。
消灯したワンルームのアパート。眠りの浅い俺は明かりをつけると目が覚めるので、トイレの電気さえも付けずに壁に手をつきながら用を足し切った。
粗相はしない。毎夜こうして真っ暗闇の中で音だけを頼りにこうしているのだから。
毎日深酒をする様になってからというものの、こうして二度ほどトイレに起き出す。だから睡眠の質が低くなって余計な悪循環に見舞われる。
けれど飲まずになんていられなかった。
俺から酒を飲んで酩酊する愉悦を奪ったら何が残る?
何も無いじゃないか。
だから毎日酒を飲む。四十代にもなって彼女も友人もいなければまともに定職にも就いていない俺、たとえ健康を害そうが早死にしようが誰に迷惑を掛けるでもない。
小便も流さずにベッドの方へと戻り掛けると、浴室の方から、
――ピチャリ。
ぴちゃり。
何かを
驚いたとか恐ろしいだとかと考えるよりも先に、浴室の中折れドアを押して開いていた。
――ピチャン……ピチャン。
遅れて電気を灯すと、暖色系の明かりが浴槽を照らした。
暗闇に慣れた視界に光の刺激を受けて、刺す様な不快感を覚えた。
どうやら錆びかけた蛇口から水滴が垂れて浴槽の底で音を鳴らせていたらしい。
しばらく使ってないというのに不思議だ、バルブでも馬鹿になり始めているのだろうか、しかめ面をしながら蛇口を締め直す。
見下ろした浴槽は、長く使用せぬまま蓄積した赤カビと茶色い水垢で満たされている。
月に数回シャワー位は使用するが、浴槽なんてのはもう何年も利用していない。
使っていないというのに、こんなに垢やカビが溜まる。
舌打ちをした俺は汚れを見ないフリをして浴室の電気を消してまたベッドに潜り込んだ。
――その日、夢を見た。
それは夢と分かりながらもひどくリアリティのある恐ろしいものだった。
俺は普段と変わらぬ汚れ切ったワンルームのアパートで眠っていた。暗い室内で、先程ベッドに入り込んだのと同じ仰向けのままなのだが、瞳だけが押し開いていて、自分の臍の方を見つめる形で僅かにも動き出せずに固まってしまっている。
……赤く薄汚れた赤カビのような肌をした、女だった。
不潔そうな女は動けぬままの俺の足元から這う様な姿勢でそこに現れ、
――ピチャリ。
ぴちゃり。
と俺の薄汚れた垢まみれの体を、足の指先から舐る様にして四つん這いに這い上がって来る。
女の舌は猫の様にザラザラとしていて、氷のように冷たく、心地が悪かった。
気味が悪く。戦慄する程恐ろしかった。けれどこの体は微かにも動き出さず、じっとりとした油汗が全身を濡らすばかりだった。
赤い女は俺の体を足元から舐りあげて腹の方までじっくりと移動しながら、舌でたくし上げられた俺の素肌の上に、ギトギトと油ぎった黒い長髪を垂らして上の方へ――つまり俺の顔の方へと這い上がって来る。
――ピチャリ。
ぴちゃり。
水滴の垂れる音に似た粘っこい舌の音が、徐々にと克明になって来て、遂には俺の首元まで辿り着いた。
足から上って腹へと到り、そうしてじっくりと時間を掛けてついぞ俺の首元まで迫り来た不快な舌先が、いよいよとこの顔まで迫らんと予感した時――俺の肌の上を動き回る舌の微細な動きが、喉仏の辺りでピタリと動き止める。
「…………っ!」
――女は勢い良く、俺の視線の前へと、髪に埋もれたその赤い表情を見せた。
腐臭が立ち込め、荒れた赤カビ色の素肌が垂れた黒髪の隙間に覗いていた。そしてその上で、白目の剥き出された片目だけが俺を覗いている。
鼻を突き合わすかの様な至近距離で……。
卒倒し掛けた俺は、朦朧と変わりゆく視界の中で、もごもごと動き出したひび割れた口元を見た。
――
女は確かにそう言っていた様に思う。
それから赤い女は、度々俺の夢に現れる様になった。
シチュエーションは同じで、赤い女が音を立てて俺の全身を舐る。
決まってそれは、俺がしばらくシャワーを浴びるのを忘れて過ごしていた、全身が垢に汚れて来た日に見る。
……俺は、あの女を待ち望む様になった。
あれほど恐ろしい夢を見て置いてなぜ俺があの女を求めるのか。それが何故なのかは、俺自身にもわからないでいた。
けれど、醜悪で、醜怪な、あの赤い女の事を思うと。
ヤスリで肌を撫でられているかの様な不快極まるあの
実際にその夢を見ている時は、心底おぞましいと思い、邪悪な程に嫌悪するというのに、一度その夢が終わって月日が経ってみれば、どうしてか、あの身を削られる様な感覚にまた身を浸したくなって堪らなくなってくる。
不思議とその夢を見た後は体の汚れが気にならなくなっているのだが、またしばらく風呂に入るのをやめて、夢の中でまたあの赤い女に出会おうと、そう考えるようにさえなっていた。
「
女は決まって俺の鼻先でそう言い残し、夢はそこで終わる。
その夢を見ている間、石の様に固まってしまっている俺は、女の声にひと言も返せないでいた。
けれどそうしてあの女との
俺があの赤い女を受け入れてから、もう四度目の夢を見た頃だった。
女に舐められた肌に発疹が現れている事に気が付いた。その発疹はいつまでも消えず、俺の肌に赤みを残し続けた。そして再び女の夢を見ると、また別の箇所に赤い発疹が出現する。
まるでこの俺自身も、あの赤い女の様に赤カビの体に変わり始めているかの様だ。
一緒になろうとはそういう意味だったのか。
俺自身が、あの夢の中の女と同じ存在になるというのだろうか?
既に夢と現実との境目は曖昧になっていた。
ああ早く、それならば。
早くあの女と同じになって、そして一緒になりたい。
俺の存在を認めてくれる、あの女とならば。
――ピチャリ。
ぴちゃり。
夢を見る直前の
今にして思えばこの音は、あの女がこちらに歩み寄ってくる足音のようなものとも考えられた。
ああ早く、一緒に――……。
その日、夢を見た。
赤い女の夢だった。
しかしいつもの様子と違うのは、この夢自体をまるで逆再生しているかの様に、最後に見る赤い女と鼻先を突き合わせた、そのシーンから夢が始まった事だった。
――
夢の冒頭からそう言われた。
それは初めての事だった。
「ぁ……」
そして、この口が動く。これまで鉛の様に重くなっていた唇が、目前の女に向かって確かに言葉を紡いだ。
「はい」
女は髪の隙間から出した剥き出しの片目を弓形にして不気味に笑むと、音を立てて俺の体を胸から下へと向かって舐り始めた。
そして俺は次の瞬間、夢が逆再生をしているのでは無く、「一緒になりましょう」から
――これまでに経験した事もない、その舌先でぞりぞりと、この身の肉の形状をなめし、泥細工の様に変形されるかの様な、激烈な痛みに襲われる。
「ああ――ッ!」
俺は悲痛の声を上げた。また動けぬままの体で女の方へと視線を下げると、舐り絡め取った俺の肉を舌なめずりしながら咀嚼していく女の姿が見える。
女は嬉しそうに、俺の赤い皮膚に付着した垢を、皮を、肉をこそぎ落として俺の肉体を変形させ始めているのであった。
「やめ……ィ――っが!!」
女はやはり嬉しそうに瞳を歪ませたまま、その荒いヤスリの様な舌で肉を潰して削ぎ落としていくのをやめなかった。
気がどうかしてしまいそうな位の激烈な痛みに苛まれても、夢が醒める事はない。
いいや、もしやするとこれは端から夢などではなかったのかもしれない。
どうして俺のこの身の肉がその様な性質に変異しているのか、削ぎ落とされていく肉体は血飛沫を上げる事もなく、より赤く鮮烈とした脂ぎった色を見せながら変形させられていくばかりであった。
ふと見ると、女の足には指がなく、一本の太いかぎ爪のような形状をしている事に気が付いた。
その時になって俺はようやく思う。
一体俺は何を承諾してしまったのか?
今になって俺は、この赤い女に惑わされていた事を自覚したのだ。
間違っていた。この女は人ですら無い。
それともまたこの夢が覚めたら、再び俺はあの赤い女の存在を渇望する様になるのだろうか?
*
「日毎に、肉体の形状を変えられていく夢をみるんです」
全身に包帯を巻いた足首の無い男は、皮膚が赤くなって爛れる原因不明の奇病にうなされる病床で、そんな話をしてくれた。
その表情は終始、不気味な程の満面の笑みに覆われていた。
――――――
『
嬰児に似ていて目は丸く舌が長い。しかし一説によると美人の女性の姿で現れ、肉を舐め、骸になるまで削ぎ落とされるという話もある。
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