第三頁 【幽谷響】


   【幽谷響やまびこ


 山の深くに踏み入って、何層にも連なった谷が見えて来た時の事だった。自然の中を緑と一つになって登っていく夏の景色の素晴らしさに「やっほー」と声を上げてみた。

 山間に消えてゆく清流を眼下にしていると『やっほー』と声が返って来て、また何回か反響する様にして消えていく。

 小気味よく思った私は一人なのを良い事に、日頃の鬱憤を声に乗せてみた。


「織田のバカヤロー!」


「織田のバカヤロー……」


 織田とは上司の名である。積年の恨みを声にして解き放ってみると、またその声が返って来て気分が良くなった。

 調子に乗った私は次に妻の名を口にする。


「ユリ子ー! そこは俺の家だぞー! 俺が必死に稼いだ金で買った俺の家だー!!」


「ユリ子――……そこは……ぞー…………」


 週末になると私を体よく家から追い出そうとする妻の事を声にしてみた。しかし今度はうまくこだましない。声は短くハッキリと区切る事でよりこだまするという事を理解した。なので次からは区切り区切りに声にしてみる。


「エミー! お父さんのパンツは!」


「エミー! お父さんのパンツは!」


「汚くなんかないぞー!」


「汚くなんかないぞー!」


「一緒に洗ったって良いだろー!!」


「一緒に……って……だろー!」


 反響して来る声に満足げな笑みを浮かべた私は、青い空からの日差しが燦々と注ぐ一つ向こうの山で、鳥が一気に飛び立ったのを目にした。


 見ると、一際高く天へと突き出した形の樹木のてっぺんへと何かが駆け上がって来て左右に揺れている。


 肉眼で見るとそれは猿か何かの様に思えた。私の声に反応して猿が飛び出して来たのだと笑いそうになっていたが、凝視していると少し妙な事に気付いて来る。


 あんなに真っ黒い猿などいるのだろうか?


 私は首から下げていた双眼鏡を持ち上げてソイツを眺めてみる。


 ……なんだこの生物は?


 黒い……異様に黒い体毛に囲まれた……犬? いや、やはり猿なのか?

 兎に角、見た事も無い生物が突き出た木のてっぺんから視線をキョロキョロとさせている。


「ウワッ!」


 驚いた私は、その視線を黒い猿から離す事無く、悲鳴に近い様な声を上げていた。


 ――するとソイツも、大きな口をパックリと開けて「ウワッ!」と私の声を真似するのであった。 


 私の声質で……。


 私はこの時「やまびこ」という名を直感的にイメージしていた。コイツは、この猿は私の声を真似て声を発しているのだ。

 山から反響して来るやまびこの正体は、自然現象では無く、この怪異による現象であったのだろうか?


 そんな幻想を私は抱いていた。

 確かめる様に私はまた声を上げる。


「やっほー!」


「やっほー!」


 やはり間違い無い。黒い猿が口を開けて、私の声を真似ている様だ。 

 しかし、そんな事などあるものだろうか?

 仰天した私が冷や汗を垂らしてソイツを凝視していると、キョロキョロと周囲を見回していた視線が私を見定めたかの様にピタリと動くのを止めた。


 双眼鏡の拡大されたレンズ越しに、私は怪異と目を合わせたのである。


「なんだよ……あいつ」


 双眼鏡から目を離し、情け無く尻もちをつきながら囁いた筈であるのに、まるで全力で叫び上げたかの様な声が山から返って来た。


「なんだヨアイツ!!」


 もう一度双眼鏡を構えてみると、黒い猿がにんまりと笑って私を覗いていた。そして奴は木の先端に踊り出して枝葉の上にしゃがみ込み、バランスを取るみたいに両手を左右に突き出してゆらゆらと揺れた。


「ハヨ帰ッタレ」


「……は?」


「……ハ?」


 黒い猿はひとりでにそんな事を言い始め、私の疑念の声を真似てケラケラっと笑っていた。

 恐ろしくなった私は、言われるまでもなく山から逃げ帰った。



 急いで山を降りて自宅まで一直線に逃げ帰った。時刻はまだ昼過ぎだった。玄関のドアノブに手を掛けると、バタンと扉の向こうから大きな音がした。


 ……妻が玄関先で倒れていたのだ。


 痔病の高血圧が悪化しての脳梗塞だった。娘はバイトに出掛けていて、妻は私の帰る夕刻まで一人で家で過ごす予定だった。私が猿に脅かされて急いで帰らなければ、発見はさらに数時間は後になったであろう。


 救急搬送からの開頭手術で、妻は一命を取り留めた。聞くに私が家に帰る直前に脳梗塞を起こした様であるらしく、発見が早かった為に後遺症も残らないと言われた。


 アイツは……あの黒い猿は、幽谷響やまびこは、私の家族を救ってくれたのだろうか?


――――――


幽谷響やまびこ


 山や渓谷に向かって発した音が反響する現象は、この妖怪が声を返しているのだと考えられていた。山の神やその眷属とも言われる。その正体は『木魅こだま』であるとも言われる。

「画図百鬼夜行」では木のてっぺんに座り込んでバランスをとるかの様に両手を広げる黒い犬の姿で描かれている。

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