第九頁 【獺】

   【かわうそ


 俺は今年で四十四になるが、これくらいの歳になるとしみじみ思う事がある。

 結婚とは人生の墓場だと言うが、確かにその通りかもしれない。

 今年で結婚十八年目になる妻とはもう何年も口を聞いていないし、高校生になる双子の娘にもまるで空気の様に扱われている。

 妻には小言を言われ、娘達には何か欲しいものがある時だけまともに口を聞いてもらえる。

 こんな仕打ちに頭に血を上らせて激昂する事も昔はあったが……今はもう、そんな気力さえも無くなって、黙って尻に敷かれている。

 俺は家族の顔色を伺いながら、怯えた子鹿の様に部屋の隅で静かにうずくまっていた。

 ……この家は俺のローンで買った筈なのに、だ。情けない。


 そう言う訳で、家に帰っても肩身の狭い俺は、仕事を終えて自宅に到着すると、決まって近所の河川敷で晩酌をしていた。

 自宅から少し離れた月極駐車場に車を停めてから、行き掛けにあるコンビニに寄って500mlの発泡酒を二本買う。そうしてもうすっかり夜に変わった空の下をネクタイを緩めながら歩いて河川敷を目指す。

 それがささやかな楽しみだ。

 ……自分で書いていてひどくみじめに思えてきた。


 自宅近くを流れる太い川の河川敷。俺が座るいつもの定位置は、堤防の方からは死角になって見えない階段の下の川縁のベンチだった。

 人目を忍ぶのは、当然こんなみじめな姿を誰かに見らたく無いからだ。


 ――カシュ。

 小さな外灯の下でプルタブを上げる物音がやけに儚く耳に残る。

 本当はビールとは言わぬまでも淡麗位は飲みたいものだとも思うが、月の小遣い一万五千円の俺には過ぎた願いだった。


 喉は鳴らすが、「かぁあっ」とは言わない。俺がここにいる事は誰にもバレてはいけないからだ。

 この闇の中には、俺の喉が鳴る音と太い川の流れる音だけしかあってはいけない。俺は空気だ。雑草なのだ。


 それにしても、毎日こんなルーティンを済ませてから自宅に帰る俺は酒臭いと思うのだが、妻にはとっくに愛想を尽かされているから何も言われない。

 そもそも出迎えられる事も「おかえり」の一言さえもない。

 これぞまさに“杞憂”と言うやつだ。

 ――閑話休題。そんなことより、だ。


 それは秋の始まった肌寒い夜事だった。虚ろな目線で何処ともなく川を正面にしていた俺の耳に、


 ――ザブン。バシャシャ。


 ……と大きな魚が跳ねて陸地に上がったかの様なけたたましい物音が聞こえて来た。

 なんだなんだと中腰になって川を見下ろしていると、右手に続いた外灯の点在するコンクリートの道から、人影がこちらに歩み寄って来るのに気が付いた。


 まぁ、人目を忍んでいるとはいえここは公共の場。俺以外の者がランニングがてら通りがかる事はままある事で、別段驚くは無かった。

 ただ、こう言う時はなんとなく伏目がちにして何気ない風を装う事にしている。

 早く過ぎ去ってくれ、と気にしていないフリをしながら発泡酒を一口あおる。

 なんとなく顔を覗くのも悪い気がするし、俺もまた顔を見られたくなどはないのでそちらを見やる事無く過ぎ去るのを待っていた。


 ……しかし、男はなんと俺の座ったベンチの隣にどっかりと腰を下ろしたのであった。

 向こうの方にもベンチはいくらでもあるのに、一体全体どうして俺の隣に腰を掛けるのか、と訝しく思った。

 朝の電車で空席があるのにわざわざ隣に座る乗客なんていないだろう。人間にはパーソナルスペースという親しくない者には踏み込んで来られたくはない防衛本能が潜在的に備わっているものなのだ。

 途端に居心地が悪くなってチラと男の方を見た。


 すると少し驚いた。

 男は俺と同じ服装をしていた。掠れた黒の革靴に灰色のズボン、有名量販店で安値で買ったトレンチコート。背格好もまた俺と同じくらいで、まるで鏡写のような存在が俺の隣に腰掛けている。一つ違うのは、男の方は黒いハットを深く被ってその表情を影にしているという事くらい。

 しかし俺も言うなれば何処にでもいる量産型サラリーマンの様な風体をしているので、駅などで同じファッションの男を見かける事も多かったし、その事もさほどは不思議に思わなかった。


「……」


 男は未だ俺の隣に腰掛けて彫像の様に動き出す事もない。

 しかし俺も一端の社会人なので、隣に腰掛けられたからバツが悪い、とあからさまに席を立ち上がるのにもなんとなく気が引けた。今にして思えば実に日本人らしい思考であると思う。


「………………れ」

「え?」

「…………くんれ」


 何やら男が、ハットの下の深い影の向こうで声を発し始めているのに気づかざるを得なかった。

 何故なら小動物のように甲高いその妙な声は、誰でもなく、この俺に語り掛けているらしかったのだから。


「くんれ……ろレ。酒」


 少し日本語がおかしい。

 そして妙に“酒”の発音だけがいい。文脈からしてこの男はどうやら、俺に酒の無心をしているらしかった。

 振り向いて来たハットの下で鈍い瞳の光が二つ灯って、ベンチに置いたままにしているまだ開けていない俺の発泡酒を物欲しそうに眺めているのだ。


「酒、をシイ」

「いや……これは。私だって少ない小遣いで」


 今に涎を垂らされそうになっている缶を掴んで、俺は驚きのあまり目を剥いていた。そしてあまりに無礼な男を強く非難していた。


「ナンれ」

「自分で買ったらいいじゃないですか。アナタも別に、酒を買う金がないって訳でもないでしょう!?」

「あネ、ない。おさかナ……ァる」

「はい?」


 小豆の様につぶらな瞳が俺を見つめていた。

 そうして首を傾げる私に向かって男はおもむろに懐に手を忍ばせ――。


「おレ」

「うわっなんだ!?」


 男が取り出したのは生の魚だった。あまり魚の種類には詳しくないのでそれがなんという種類なのかはわからなかったが、男はトレンチコートの懐からヌメる魚をわし掴みにしてベンチの上に並べ始めたのだった。頭の向きを揃えて、まるでお供えでもするみたいに。

 ――これじゃあまるで獺祭魚だっさいぎょだ。男の意図は未だ汲めない。何故こんな事をするのか、なぜ俺にそんな事を言うのか、どうして魚を懐に生で蓄えているのか。

 気味が悪くなって固まっていると、男はまるで催促でもするかの様にペシンペシンペシン――とベンチの座る所を親の仇かの様に猛烈に叩き始めたのだった。


「さかナーー!!」

「うわああっ、もういいっ、あげるから!」


 俺はその男の狂態が怖くなって、発泡酒を一本男の前に置いて振り返り、足早にその場を立ち去った。


「おさカナ、いァんのかーーー!」


 奇声にも似たそんな恐ろしい声が起こって、俺は思わず振り返った。


 ――そこには、少し顔を上方に傾けてハットのズレた男の顔が露わになっていた。

 男の顔は茶色くて短い毛に一面覆われていて、目はやはり小豆の様に真っ黒で鼻が長かった。

 バケモノのようなその男は、先程俺に差し出して来た魚をそのまま喉の奥へと詰め込んでいたのだった。

 そしてその手には、しかと俺が置いていった発泡酒が握られていた。


 ――ギャっと叫び出しそうになるとそれよりも先に、男の姿はしゅるんと煙の様に消えて、あとには川に巨大な石でも落ちたかの様な、ドボンという物音だけが残った。



 腰を抜かしながら自宅に帰った俺は、リビングでくつろいでいた妻や娘達に大慌てで今見たことのあらましを話したが。

 妻に「魚くさ」と言われただけだった。



――――――


『獺』


 川に住む、人を化かす妖怪。「カワオソ」が変化して「カワウソ」となった。元々の和名には川に住む恐ろしい者という意味がある。

 美女に化けて男を化かす事や、漁師の網にかかって生首に化けて驚かせたりするという。

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