第五頁 【山姥】


   【山姥やまうば


 岡田ヨシエは二十歳の頃に長野県の山奥にある〈T村〉という小さな集落に嫁いで来た。彼女は幼い頃体が弱く、長くは生きられないとも言われたが、こうして古希まで生き永らえ、大病もせず三人の子供をもうけて立派に育て上げ、今では四人の孫にも恵まれている。このゆっくりとした時間の流れる田舎生活が良かったのかもしれない。子供達はみんなこの不便な生活を嫌い旅立ってしまったけれど、ヨシエは旦那と二人でのどかな田舎生活をそれなりに楽しんでもいた。


 ヨシエは決まって朝の六時に、平屋の自宅の庭で洗濯物を干すのだと言う。それが習慣となってもう四十年ともなる。物干し竿から向こう正面に広がる庭先に区切りは無く、そのまま広大な山林へと続いてすぐそばで隆起していた。

 結婚当初には、土砂崩れなんかがあったらいの一番に被害に遭ってしまいそうなこの立地をひどく懸念したものだが、幸いにもそういった災害には出くわしていない。


 ――ある日ヨシエがいつもの様に庭先で洗濯物を干していると、細い木立の合間に老婆の姿を見た。


 気付いた時にギョッとしたが、あまりにも明確にそこに居るので、洗濯物を干す手を止めて視界を凝らした。

 しかし朝日に照らされたヨシエのいる軒下からはやはり、鬱蒼とした木々で影になった山林の木立の合間に、薄汚れた灰色の着物を纏う、みずぼらしい老婆が立っている様にしか見えなかった。

 ヨシエよりももっと痩せ衰えた老婆が山林の中の細い木と木の隙間から、直立不動となった格好で立ち尽くしてヨシエを覗いているのだ。

 その瞳は揺れる事なく、顔の半分と胴体から下が木々の合間に見切れたままになっていたが、目の錯覚なのか何なのか、見切れた筈のその右半身や左右の腕なんかは、老婆を挟んだ木々の左右からも視えないでいた。つまりその老婆の姿は、木と木との間の空間に切り取られたかの様に映し出されているのであった。


 洗濯物を干すヨシエを眺めるかの様に、老婆の片目がこちらを覗いていた。感情は窺い知れず、揺れ動く事の無い瞳は深く落ち込んで、黒目が異様に大きく見えた。年の頃はもう八十かそこらの様に思える。元々綺麗に結われていたのであろう日本髪をほつれさせ、白くハリの無い白髪はざんばら髪の様になっていた。


 ……だが、考えるまでもなくおかしいのだ。〈T村〉とは本当に小さな集落で、村民は数える位しかおらず、当然その顔ぶれを全て把握している。であるのにこの老婆の事をヨシエは知らない。〈T村〉は山の中に孤立した様な形で存在しているのだから、近隣の村から迷い込んだ者でもあるまい。


 少し現実的に考えてみようともしたが、ヨシエは既に気が付いていた。その細い木立の合間に切り取られて視える老婆は――、と。


 ヨシエはこの老婆を――もしやすると山を守るという山の精では無いのかとも思った。何故ならそう言った伝承がこの〈T村〉には確かに残っているからだ。こういう時代に取り残されたかの様な集落では、そういった土着信仰が未だ根強く残っていたりするもので、〈T村〉もその例に漏れなかったのだ。

 だとしたら粗末に扱ってはならないとヨシエは思い直した。

 恐ろしくなって伏せていた視線をもう一度山林へと戻すと、老婆はもう消えていた。



 ……しかし翌日から老婆は、ヨシエが庭先に洗濯物を干しに出るその時間に、毎回姿を現す様になった。


 不気味なのは、一日一日と日を追うごとに、老婆は手前の木立の隙間に移動して来る事である。

 相変わらずそこにトリミングされたかの様な切り取られた姿で、木々の隙間に現れてはヨシエを感情の無い黒い瞳で見つめ続けるのであった。


 山の神だとしても、あんまりにも不気味だ。

 そう思ったヨシエはそれから十日も経たぬ内に、老婆へと問い掛けてみた。


「なんだ」


 思い切って声を出してみると、程なくして声帯の潰れたかの様な掠れた声が返って来ていた。



 そして老婆はヨシエを指し示す様に枯れ枝の如き指先をこちらに向けた。

 ハッとして視線を上げると、老婆はもう消えていた。



 それからヨシエは、洗濯物を干し出す三十分ほど前に握り飯を一つ用意して山の隆起していく麓にお供えする様になった。

 庭先に出ると決まって握り飯は跡形も無く消えていた。

 老婆もそれからは姿を現さなくなった。

 ヨシエはホッと息を吐いて、それからは習慣の様に握り飯を出しておく様になった。握り飯がものの数分後に消え去ってしまう怪奇の真相を調べようとすれば山の神様に対して不敬に当たる様な気がして詮索もしなかった。それで神様が満足してくれているのならそれで良かった。


 ……しかしヨシエの旦那――士郎がその話を訝しく言い始めた。聞くに〈T村〉に残る山の精の伝承はヨシエのいう様な老婆の怪異なんかでは無いのだという。それに加えて、貴重な握り飯をくだらん事に消費するなとヨシエを叱るのだった。確かにこの集落から町のスーパーまでは車で一時間以上掛かるので、いつまでもこんな事に米を浪費し続ける訳にもいかないという事はヨシエにもよく理解出来た。

 どうするべきかとヨシエは少し戸惑ったが、握り飯を供え続けてもう一ヶ月、あの老婆が姿を現す事は無い。毎日無くなる握り飯にしたって、猿かなんかが餌の出てくる時間を覚えて毎日持ち去っていくに違いないのだろう。

 そうタカを括って、もう握り飯を置かない事にした。



 するとすぐ、その翌日にはあの老婆が姿を現した。それも今度はこれまでよりもうんと近く、もう数メートルともなろう木立の合間に姿を現したのである。冷水を浴びせかけられたかの様な思いで背中を飛び上がらせたヨシエは、そのおぞましい形相に向かって懇願した。


「許してくれぇ、握り飯、ちゃんとお供えするから。怒らないでくれぇ」


 いつに無く恨めしい老婆の表情に恐々としたヨシエが干していた洗濯物を投げ出して腰を抜かしていると、


「こめはいらん……」としわがれた声が聞こえてきた。


 ヨシエが顔を左右に揺らしながら目を見開いていると、老婆は木立の合間から煙の様に消え去り――


「めし……」


 腰を抜かしたヨシエのすぐ頭上の物干し台と物干し台の合間から、ヌッと全貌を現したのだった。


 ――瞬きする間にヨシエに肉薄していた老婆はそう言って、白目の無い真っ黒な瞳を見開きながら、薄汚れた指先をヨシエの額に押し付けて来た。


 そして言った。

 動き出す事も無い口の奥底より、まるで這い出して来るみたいな不可思議な、脳に響くかの様な確かな声で。


 ――肉だ。骨と皮ばかりに見えても生きているのだから、肉がある。


 老婆が歯抜けの口をあんぐりと開けてヨシエの頭に齧り付こうとしているのがわかった。凄まじい腐臭を放つ暗黒の様な口が開かれ、粘つく唾液をヨシエの額に垂らしていた。

 人を飲みこんでしまえる程のありえない大口に覆い被さられながら、ヨシエはどうしてか金縛りになってしまったかの様に身動きも取れないでいた。


「ヨシエ!」


 その時であった。昨日のヨシエの話しを懸念した士郎が、山の怪やまのけの正体を見破ってやろうと陰ながら様子を見ていたらしく、陰から飛び出して来たのである。

 突然の男の声に肩を跳ね上げた老婆は、眉間に深いシワを刻み込んだまま、幻であったかの様にたちまちに姿を消した。


「あんた……っ」


 涙ながらに士郎に感謝するヨシエだったが、当の旦那は眉を八の字にしながら――はあ? ととぼけた声を出している。


「あんたも見たでしょう? あの恐ろしい老婆……わたしはあと少しであの口に一飲みにされる所だった」


 縋るように言ったヨシエに対して、士郎は気の毒そうな表情をして腰を抜かした彼女を見下ろしながらまた首を傾げた。


「俺はお前が急に転んだんで飛び出して来たんだ。何寝ぼけとる。額に煤付けて」


 目を丸くしたヨシエの額には、煤の様な汚れがついていた。


   *


 〈T村〉を囲んだ山には昔、姨捨山おばすてやまの言い伝えがあった。

 大昔、飢饉のあった頃に食いぶち減らしの為に老婆を捨てる。この山にはそういう風習があったと古い文献に残されていた。今ではその事を知る者も少ない。

 ……しかし、山に打ち捨てられたからと言って必ずしも全ての者が死に絶えた訳では無いのではないか。もしやしたら一部の者は、なんらかの方法で山に棲み着いていたのでは無いかという事も考えられる。

 とはいえ老いさらばえた肉体では山菜を積む事さえままならず、獣なんかも捕らえられなかったであろう。


 ――ならば、衰弱し切った生物であればどうか。


 ……そうすれば、しばらくは生きながらえられたのかも知れない。

 何故ならその山には、そう言ったがひっきりなしに捨て置かれていくのだから。


 ――ただし山に棲まい、それを喰らう者はもはや、人では無い様にも思う。



――――――



山姥やまうば


 人の肉を喰らうという老婆の妖怪。

 かつて口減らしの為に山に捨てられたという姨捨おばすての伝承が変化したもの。『山姥』と一緒に『山爺やまじじい』や『山童やまわらわ』と一緒に居るという。

 また「今昔物語集」によれば山姥は坂田公時――つまり金太郎の母であるともされる。

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