第六頁 【犬神・白児】


   【犬神・白児】


 「犬神」とは、主に西日本を中心に語り継がれて来た妖怪の名である。犬神の憑いた一族は「憑き物筋」などと呼ばれ、主に女系を中心にして受け継がれると考えられていたらしい。

 犬神に憑かれた人間は高熱を出し、激しい痛みに襲われ性格が豹変し、突然犬の様に遠吠えしたりと狂乱するという。また犬神に憑き殺された者の体には犬の歯形が残っているとも言われていた。

 一度犬神に憑かれればその一族は「憑き物筋」となり、迫害の対象とされた。治療の手立ては無く祈祷をするしか無いとされていたが、無論そんなもので憑き物が落ちる事など無かったであろう。

 しかしその一方で犬神は一族に富をもたらすとも考えられていた。だが扱いを誤ればたちまちに一族を零落させるという事から、やはり婚姻などは避けられ、「憑き物筋」は村八分にされる宿命にあった。

 だがその恐ろしき犬神を利用しようという者もあったらしく、「犬蠱けんこ」と言われる方法や、地中に埋めた犬の頭だけを地上に出して、目前に食べ物を置いて飢えさせてから首を切り落とすなど、残虐極まる方法で犬神を生み出す方法もあったらしい。そうして出来上がった「犬神」の霊気宿る呪物を巫女が売っていたとの記述も残されている。


 ――そういった民間伝承が、一昔前の日本ではまことしやかに信じられていた訳である。


 今の時代に照らして考えてみればどれも眉唾極まるもので、今日日きょうび運勢なんかは信じたとしても、祈祷やまじないで病が治るとまでは誰も思わないだろう。

 だが現代を生きる我々がそうと思えるのには科学のめざましい発展と確固たる基盤の堆積があるからであって、令和五年の現在においても他文明との関わりを拒絶する北センチネル島の島民からしたら、前述した「呪い」や「祟り」といった話の方が些か信憑性を感じるのであろう事も想像出来る。

 つまり我々人類は、持ち得る常識によって見える世界をまるで違えてしまうという訳である。

 我々からしたら犬神憑きの症状などは、当時やまいと認識されていなかった精神病の類や狂犬病など、その症状に特異な反応を示すものを指していたのだろうという事は想像に難く無い。犬神が遺伝していくという点に関しても、精神病には少なからずそういった遺伝との因果関係が認められている訳であるし、犬神に呪い殺された者の体に犬の歯形が残っているという記述に関しては、やはり狂犬病の感染経路と酷似している。


 ――要は昔の人々は、説明し得ぬ現象に妖怪の存在を当て嵌めて、原因として理解しようとしていたのである。なんとも神秘的だがそれらを総じて現代では「オカルト」と呼称するのだ。

 だがやはりその当時の人々からしたら「犬神」や「祟り」の存在こそが真実であったとも言えた訳で、もし仮に私がその時代にタイムスリップをして犬神憑きの何たるかを説いたとしても、誰も私の話に真面目に取り合わないだろう。

 つまり知らぬ者にとっては、「妖怪」や「祟り」といったオカルトこそが真実なのである。


 ……話が紆余曲折したが、要は私が言いたいのは今現在の我々は「妖怪」の脅威を克服したという事なのである。先に話した「犬神」の伝承を恐れる者などもう現代にはいないだろう。全てにおいての原因が解明されているのだから「犬神」などという怪異の入り込む余地さえ無いのがわかる。たとえ過去の歴史からしたらそれが真実であったとしても、この現代においてはそういったオカルトは完全に否定出来る訳だ。

 ――つまり「妖怪」という存在は今後において衰退していく概念なのだ。恐れる事はもう何も無い。

 

 無い筈、なのだ……。


 ここまで私は理路整然と、科学的見地において伝承の真相を究明した。

 ……このように徹底とした現実的視点と理解があった上で、「妖怪」というオカルトの排他された筈のこの現代において、


 ――私はどうにも今現在、に見舞われているのである。


 この現象をどう証明しようかと頭をもたげる毎日。現在の科学の叡智を持ってしても説明しきれぬ不可思議なる怪異。

 今日こうして「犬神」の話を引き合いに出すのに際して、私は非常に驚かされた。驚愕したと言い換えてもいい。この話をするにあたって画像を添付しようと「犬神」と検索してみると、「鳥山石燕」という江戸時代中期の妖怪絵師の描いた墨絵が一番に表示されたのたが。

 そこには神職の格好をした「犬神」と。その足元に――不可思議なる存在が描かれている。


 ――これだと思った。


 私の頭を悩ませる怪異の正体はこの、「犬神」の足下で学びを受けている正体不明の「白児しらちご」であろう事に間違いが無いと勘付いた。

 ……と思えば、私が「犬神」という妖怪を偶然に引き合いに出したのにも何か、因果を感じざるを得ない。

 ――となると私はもう、手遅れなのかも知れない。何故なら、この「白児」という怪異にしまっているのだから。

 ……よもや私が、この様に曖昧なオカルト的表現を使用する日が来るとは誰が予想しただろう。


 調べてみると「犬神」の方は単体で伝承されているが「白児」は主に「犬神」とセットで描かれるものであるらしい。いずれも「犬神」より何かを学んでいる構図で描かれ、一説には弟子でないかとも、犬神に噛み殺された子供が転生した姿では無いかとも語られる。鳥山石燕の描いた白児の方は「稚児髷ちごまげ」(子供の髪型とされる)をした浴衣姿の人間の男児の様に描かれているのに対し、同じく江戸の時代に描かれた作者不明の「化物づくし」では子犬の様な姿で描かれている。調べてみても「白児」についての文献はほとんど残っておらず、それ以上の解明の余地が無い。

 しかし間違いない――私は今、この「白児」という怪異に見舞われているのだ。


 ……素性を明かすが、私は近年発生したを専門とする急性期の病院で医師をしている。医師という立場でありながら病に関するその一端をオカルト任せにするなど、医療者として最大の失態であると同時に匙を投げているのと同義であるという認識に関しては痛い程に理解している。だから私はこうして何年も、、極限状態におけるせん妄状態であると結論づけてまともに取り合う事をしなかった。

 ――だが、いい加減に変だと気付いた。オカルトから目を背けて現実的に物事を思考し続けようとも努めたが、私の手を溢れ、治療の甲斐なく死に行く者は年々と、加速度的に増え続けて今日に至っている。

 医師としてのプライドが失墜したその日、私は遂にその怪異に向き合わねばならないと思った。だからこうして今、柄にも無くオカルトを矢面に上げて書き記し、であるのにも関わらず頭の先では毛頭否定しているかの様に、冒頭からいきなり怪異を否定する口から入った。あれは馬鹿な結論へと至ってしまった自分自身を嘲笑する無意識の私の心の有り様であった様にも思える。

 

 だが……これはもう、私の手に負えない。それは間違いがないのだ。だからこうして真相解明の手掛かりになればと後世に向けて書をしたためている。


 過去に「犬神」を信じた人々の様に、私はその真相を知らないから世界がこの様に見えているのだろうか?

 私の前で最期を迎えていた人々が残していったその言葉、そんな現象は――いつか科学で説明し得る様な現象なのであろうか?

 ……少なからず今私の目には、「犬神」を信じたあの頃の人々の様に、この現象は「呪い」や「祟り」の様なものにしか感じられなくなっている。


 何年にも渡り、何人も、何十人も、何百人もの患者の最期を看取ってきた。治療の甲斐なく、私のせいで死なせてしまった尊い命だった。

 彼等は、彼女達は、皆生まれも性別も出身地さえもおよそ関わりの無い人々であったのにも関わらず、激烈な苦痛を伴うその最後の瞬間に、歯を食い縛り、虚空を見上げてこう語るのだ。







 ――――しろい……。







が……」


 



 ……と。


 現実主義者の私には長くその言葉の意味が理解出来なかった。けれど同じ内容の言葉を最後に苦悶の表情を浮かべて亡くなる人々が長い年月をかけて一人、また一人と増えていくと、いい加減私もその不可解に目を向けざるを得なくなった。皆が同じ事を言って最後の時を迎える訳では無かったが、彼等の瞳は一様に、そこに何かを認めたかの様におぞましそうに歪んでいた。苦しみにのたうつ余り、自分の腕を歯形がつく程に噛み締める者も見られた。



 ……人は説明し得ぬ現象に「妖怪」という不可解の存在を当て嵌める。

 ならばほとんどの事に説明のつく様になったこの現代でがあったとしたら……それはどれ程恐ろしい形をしているのだろうか。


 私も数年前よりこの病に罹患している。およそ発症から五年までが、この不死の病に罹った者の余命であると言われている。私もそろそろその時だ。


 死の間際。苦しみに悶え苦しむこの鼻先に、私もおぞましい白い顔を見るのだろうか?



――――――



『犬神』


・出現地域:西日本


 袈裟を纏った大犬の姿で描かれる。

 犬霊の憑き物。西日本各地で古来より、狂気の要因とされて来た。

 その憑依現象は呪術とされ、『犬神』を生み出す方法として、生きた犬の頭を出して体は土中にし、目前に食べ物を置いて餓死を寸前させ、直前でその首を切り落としてその骨を焼いて祀る、という方法がある。実際に切り落とした犬の頭に湧いた蛆を巫女が『犬神』として売ったという伝承が残っている。


白児しらちご


 主に『犬神』とセットで描かれる正体不明の存在。稚児髷《ちごわけ》をした子犬の姿で描かれ、『犬神』の弟子であるとされる。

 また、犬に噛み殺された子供が白児になるともされている。


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