第七頁 【猫また】


   【猫また】


 妻が息子を連れて姿を消した。

 ――連れ去りだった。


 このアパートに、家族と過ごした日々の面影を見る。

 一人で持て余してしまっている空っぽの部屋に、あの頃のまま残されたに、得も云えぬ寂寥感せきりょうかんを感じてしまう。

 ここはもう引き払って手狭なワンルームにでも越そうと思ったが、家族の帰ってくる砂粒程の希望を、俺は捨てる事が出来なかった。


 ……もう、あれから、八年もの歳月が過ぎた。そんな可能性など既に、毛程も残されていないとわかっているのに。


 換気扇を「強」にする。


 …………ブウウ――――ンンン――――ンンンン………………。


 この部屋には腐臭が漂っていてむせ返りそうだから、こうしなければならない。


「近くで猫が鳴いてるなぁ」 

 瓶に詰めなければ――。


 唯一俺の元に残された十五を超えた老猫も、ある時忽然こつぜんと姿を消した。

 猫が死に目を見せないというのは本当らしい。

 それともあの茶トラの猫も、この家にうだつの上がらない干物のような男しか居ないのを見てとうとう愛想を尽かせたか。

 俺はまた一人取り残される。


 何食わぬ顔で仕事に行って、素知らぬ顔して日常を繰り返す。

 考える事もなく。オートマチックの機械の様に。

 けれど俺の内情は砂漠のように乾涸びて、荒廃していた。そこにはもう草木の一本すらも根を張らないでいた。

 砂色のざらついた景観にあるのはただ、もう二度とは戻る事の無い、ひび割れた額に入れられた過去の写真きおくだけ。

 俺は一人、幸せいろから取り残されている。

 もう二度と色付く事の無い世界で、俺は時を止めているのだ。


 ……どうして。

 どうしてみんな俺をここに取り残す?

 俺の注いだ愛は、幸せは?

 俺の、俺達の……未来息子は?

 猫と同じ様にアイツもアル日唐突に姿を消してしまッた。俺の大切な息子を連れて。連れ去って……。

 こんな事が許されてもいいのか?

 いいやそんな筈はない。


 ……猫……息子…………アイツ。

 猫。息子。アイツ、

 ねコ、息こ……アイつ。

 ねこ息子アイツネコムスコアイツあいツ…………アイツアイツあイつ、

 ――アイツのせいで……。


 近所の猫を捕らえて殺す事にした。

 来る日も来る日も猫を捕えた。奴等は死臭に寄ってくるから、仲間の死骸を一つ薮に置いておいてやればわらわらと集まってくる。

 一匹。また一匹。もう一匹……。

 後悔も恐怖も感じる事は無かった。

 ただ機械的に生命を解体するだけ。

 どこをどうすれば効率的に解体出来るのか、より早く締める事が出来るのか。

 レーンに立って商品の検品をする普段の仕事と大差は無かった。

 そこに心など残していなかった。

 骨を砕いて皮をなめして肉を潰して臓物を捏ねての写真を詰めた瓶の中に肉を満たしていく。剥いだ皮はつづら折にして肉との合間に挟み込み、目玉は揃えてこちらに向ける。瓶の中で濁り腐っていくドス黒い写真は呪いになる。

 呪いを作り始めて今日で一ヶ月になる。肉の満ちた臓物の小瓶は今日で五つになった。

 解体した猫の残骸は部屋に打ち捨てるままで、背骨は別の呪法に用いる為に壁に吊るして干してある。

 周囲一面が桃色をした肉の世界は、腐臭に包まれている。

 ……夜毎ゴリゴリと鳴る骨を潰す音にも、この鼻を突き抜けていくかの様な異臭にも、近所の者は何も言わないでいる。

 窓から陽の差し込んで来た明け方――何処かで猫の鳴き声がした。

 すると、


 ――自宅に溜め込んだ死骸が全て、に変わった。


 肉の世界から緑の世界に変わった白い部屋の中央に残されたのは鈍く油ぎった肉の瓶たちなどではなく、朝陽を屈折しながら輝きを解き放つ透明なガラスと、浅く木の葉の詰まった真空の中で笑う、時間を止めた妻の写真だった。

 俺は目を見張った。


 ……いけない、

 …………駄目だ。駄目なんだ。

 

 

 膝から崩れ落ちるまま、散乱する木の葉を掴んで朝日に照らして観察してみる。なんの変哲も無い緑の香りがする。

 俺が無惨に殺した猫など、どこにも無かった。


「駄目だ……だめなんだ、それじゃだめなんだって……」


 それでは、俺が。


 ――


 ここにあるのは死骸で、臓腑が腐って息もできぬ程の腐臭にまみれていなければならないんだ。

 

 ――貴方とは子どもが育てられない。


 妻が去り際に遺した言葉……。

 初めは意味がわからなかった。

 しかし妻は、俺がおかしくなってしまった事を既に察していたのではないか?

 俺は妻の言う通りにイカれていたのか? いつから?

 はじめから? じゃあ俺が妻を恨んでいたのは? 

 ……これじゃあ逆恨みもいいところだ。


 一人うずくまって顔を伏せていた腕に、ぼたぼたと熱い悔恨の涙が落ちていた。


「そうか、俺は、イカれていたのか」


 俺達の息子はお前の手によって、俺というイカれた人間から隔離することによって、無事に育てられているだろう。

 ――ありがとう、すまなかったなぁ。


 顔を上げると部屋の隅の暗がりに、木の葉の寄り集まって出来た女のシルエットが立ち尽くしていた。

 黒い、暗黒が映す影だが、俺にはそれが誰だかわかる。


七海ななみ……っ」


 妻の名を呼んで、俺はその足に縋る。














































 換気扇を「強」にする。


 …………ブウウ――――ンンン――――ンンンン………………。


 この部屋には腐臭が漂っていてむせ返りそうだから、こうしなければならない。


「近くで猫が鳴いてるなぁ」

 瓶に詰めなければ――。



――――――


『猫また』


 年老いた猫は尾が二つに分かれて『猫また』に化けるとされる。『猫また』は人を惑わすものだと考えられていた。

 また『火車』とも同一視される。

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