第二十六頁【高女】
【
寝苦しかった夜を越えて朝。布団の上で目を覚ます。
ゴロリと右に寝返りを打つと、土色をした壁が目の前に来る。この狭い部屋の中に唯一とある窓ガラスを頭上にしながら、うとうとと、もう一眠りでもしようかと微睡んでいると、声がある。
「おはよー」
薄く目を開いた俺は枕元に置いたスマートフォンを点灯させると、まだ朝の六時である事を確認して枕に顔を埋めた。
「おはよー」
「うるさいな」
頭上の窓からは既に清々しい朝の日差しが差し込んで来ていた。何処からともなく雀の鳴き声がする。
余りにも金が無いからと、このアパートを借りた時からそのままになっている剥き身の窓ガラスに少々の後悔を覚える。
「起きないの? 仕事はー?」
「あと一時間寝れるんだよ」
「そうなんだー」
性懲りもせずに毎日毎日同じ様な事ばかり言いやがって、こんな事ならば遮光カーテンの一つでも購入しておくべきだったんだ。などと思い、少しイラついたが、目を瞑っているとまた寝入りそうになって来た。
「おはよー」
「ああもうっ」
鬱陶しく思いながら瞳を開けると、頭上にした窓ガラスに長い髪の女のシルエットがあって、ガラスにベッタリと張り付いた女のその黒く巨大な瞳が俺をジッと見下ろしている。
僅かにも動き出さずに、口元だけを動かして俺の部屋の窓にイモリの様に張り付いたこの女は、片時もこの定位置を離れずに、朝も昼も夜も当たり前の様に話しかけて来る。女が喋る度にその吐息が窓に触れて少し曇る所が生々しくて嫌いだった。
「良い朝だねー」
「ちっ……」
この女は「元気ー?」だとか「ご飯食べた?」だとか「今夜は眠れそう?」だとか、まるで世話焼きな俺の彼女か何かにでもなったつもりでいるかのように気さくに、当たり前の様に話し続けてくる。
怒鳴りつけてやると僅かな時間は消え去るが、また数分もすると「元気ー?」とか言って窓の張り付いている。
道路の方に面した二階の窓から、どういう訳なのか上半身だけを覗かせながら、俺を眺め続けている。
初めは本当に恐ろしかったが、金も無く、色々と訳ありな俺が安心して住み込める場所は他にそう見つからないので、しばらくそのままにしていたら次第に俺の方も慣れて来てしまった。
それとどうやら、この女は俺以外のものには見えていないらしい。一度大家が玄関先まで入って来た事があるが、窓の方を見せても訳が分からないと言った具合で、「嫌ならいつでも出ていってくれていい」と嫌味まで言われたので二度と相談はしない。
女は髪が長く、赤いカーディガンの様なものを着ていて、そして顔の半分程までになる異常なサイズの黒目をジッと俺の方へと向け続けている事だけが窓ガラス越しにボンヤリと見え続けている。
まるで宇宙人の様な醜い顔だと思った。
「朝ごはん食べたのー?」
「……チッ」
「朝だよー」
「だからうるせえって――」
「
「っ……!」
俺は何も聞こえない振りをして掛け布団を頭まで被る。
目が覚めてしまったので、観念して起きようかと掛け布団から頭を出すと、頭上の窓から女が俺を睨んでいる。
「
俺は何も答えない。素知らぬ振りをして頭を振るうだけ。
――俺には、この化け物の正体がわかっている。
本当はカーテンなんかでなくても、ダーボールや上着なんかで窓の所に見えている女を覆い隠す事も出来た。でもそうはしなかった。何故ならばそれがせめてもの
「ねぇなんで?」
「……」
「なんで」
「……」
「なんで」
「……ぅ」
「
――――ガッ。
と一度、女の生白い手のひらが、窓ガラスを横にスライドさせようとした。
窓にロックを掛けていなければこの女は、きっとこの部屋に入って来るのだろう。
「オぃ……開ケロヨ、アケロ、開けろあけろアケロアケロ開けろ開けロ開ケロ開けろアケロアケロ」
それから何度も何度も何度も、この部屋全体が激しく揺れ動く位にガタガタと、狂った様に窓を開けようとして来る。
それが日に日に激しくなっている。
壁に立て掛けた鏡に映る俺の目の下には、酷いクマが出来ている。
ろくに眠る事が出来ない。おかしくなりそうだ。
また今度、あの女をもっと深く、もしくは限りなく遠い所に埋め直さなければならない。
二度とは出て来られぬ様に……。
――――――
『
・出現地域:東京、和歌山、秋田
おはぐろをした醜女の女が、夫が浮気をする遊郭の二階を覗き込んでいる様に描かれる。
また昨今でも某ネット掲示板にて、『高女』に類似する『窓からひょこひょこ女』という怪異の目撃例が物語られている。なんでも東京都の八王子市に頻繁に現れ、二階の窓からひょこひょこ頭を出して家の中を覗いて来る女の怪異だという。
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