第四十五頁【元興寺】
【
物心のつくかつかないかの頃の記憶に、ある筈のない記憶が紛れ込んでいる。
その当時は疑う事もなく受け入れていた経験であったが、いまこうして成人を迎えた節目にこれまでの生涯を追想していると、どうにもその記憶が、恐ろしいものに思えて仕方が無くなって来てしまった。
自分の頭の中に整理を付ける為に、あの頃の事をここに記そうと思う。
その当時はまだ奈良県に居たから、私が三歳か四歳の頃だったと思う。
私と二つ年上の兄は、しょっちゅう近所のお寺の境内を遊び場にしていた。
理由は確か、近隣にはズラリと民家が立ち並んでいるばかりで、公園の様に走り回れるスペースが他になかったからだったと思う。
そこで遊んでいるのを見つかると、両親には迷惑になるからと叱られたけれど、対照的にお寺の人達は嬉しそうにして、綺麗にならされた砂利を私達に踏み荒らされても、朗らかに笑いながらお菓子をくれたりしたのを覚えている。
しかし私はそのお寺が大層古くからある格式高い所だったという事は記憶しているけれど、残念ながら名前を覚えていない。
けれどとても良い所だった事は覚えている。のどかで、静かで、綺麗な遊び場所。それが私の記憶にあるあのお寺のイメージだった。
ある冬の日の事。
私は兄と二人でお寺の境内でかくれんぼをしていた。
代わる代わると鬼をやっている内に、すっかり早くなった日暮れのオレンジ色が周囲を染めていた。
最後に鬼になったのは兄だった。
兄がこれを最後のかくれんぼにして家に帰ろうと言うので、私はもっと長く遊んでいたくて、普段よりもずっとわかりづらい所に隠れてやろうと思った。
境内を奥に行くと古い木造の休憩所があって、その横に藪に隠れた細い路地がある。
さらにその先を行くと、小難しい漢字ばかりが書かれた看板の下に何やら大事そうにされた大きな石があって、道は裏手へと続いていた。
ここなら簡単にはバレないだろうと思った私は、息を潜めて路地へと入って行った。
夕暮れの下、砂利の敷き詰められた地面で足音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりと薄暗くなって来た小道を歩いて行った。
するとその先にある黒い大きな石の所に、お寺の人が着ているのと同じ黒い
私は少し驚いたが、声を出したら兄に見つかると思い、喉元まで出掛けた声を仕舞い込んだ。
お寺の人がこんな所でどうしたのだろうと思い、私が立ち尽くしていると、男がひっくひっくとえずく様にして肩を揺らしている事に気付く。
「いたい、いたい」
「どこか痛いの?」
泣いている男の人を見上げながら、私は慰めてあげようと思ってそう声を出していた。
すると男は、頭を匿う様にしていたその袖を下ろしていった。
それはまさに鬼の様な形相だった。下まぶたは垂れてべろりと捲れ、まるで「あっかんべー」としているみたいに赤目が見えている。さらにその頭皮はまるで誰かに無理やり剥がされたかの様に赤くなり、僅かに残った頭髪もひどく乱れていた。
けれど私はそんな男の恐ろしい形相にも声を上げずにいた。
私は子供心にも、そんな痛々しい姿になったお寺の人を怖がってしまっては悪いと思ったのだ。
泣き出しそうになるのをグッと堪えて、私は男の人を見上げ続けました。
すると男の人は、ぼう、と視線を空へと彷徨わせながら言った。
「むしられた頭がいたいんじゃないの、お腹がすいていたいの」
消えゆく様な掠れた声だったが、私はしっかりとその言葉を受け取って、
「お腹が空いているの?」
と私は聞いた。
すると男は、
「そうなの」
と一度頷いてから、黒く煤けた爪の伸びた手を私の頭の方へと伸ばして来た――。
あわやその不潔な爪が私に触れると言うその時、
――私へと差し向かっていた恐ろしい手がピタリと止まっていた。
男は何やら藪の向こうの方を見やる様な仕草をしながら言った。
「おいで、ねぇ一人でおいで。
だれにも言わないで、だから一人で」
淡々と滑り出す様に囁かれた言葉にゾッとしていると、
「見つけた」
と兄の大きな声が背中に聞こえて飛び上がっていた。
私がもう一度振り返った時には、不気味な男は音も無く消え去っていた。
それからすぐに私達は、親の都合でその地を離れる事になった。
なのであのお寺で遊んだのは、その日が最後になってしまったのだ。
昼と夜との移り変わる、逢魔時に現れたあの男は、果たしてこの世のものだったのだろうか?
私がもし、あの時に一人でいたらどうなっていたと言うのだろう。
*
そんな記憶を思い起こし、私は一人、十数年ぶりの故郷を訪れた。
そして今更ながらに知る。そのお寺の名前は――
――――――
『
・出現地域:奈良
飛鳥時代、奈良県の元興寺の鐘楼に現れたとされる僧の姿をした霊鬼。
『日本霊異記』によると、当時の元興寺には鬼が棲み着いていて、鐘楼に鐘を突きに行く童子が毎晩の様に殺された。そこに雷神の加護を受けた童子が入寺し、ある夜に『
『
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