第四十四頁【ぬらりひょん】


   【ぬらりひょん】


 一人暮らしをしていた古い木造アパートの自室で、ある異変が続いている事に気が付いたんです。


 机の上に置いてあった筈のリモコンの位置が変わっていたり、座布団が折り畳まれて枕の様にされた痕跡があったり、便座の蓋が上げっぱなしになっていたり、小さな変化が立て続いている事に気付いたんです。


 それは本当に些細な変化で、ずぼらな性格をしている私は長い事その事に気が付かないでいたんだと思います。


 朝、出社して自宅に戻ると僅かに色々な物の配置が変わっている。


 私がその事を確信したのは、楽しみにとっておいた茶菓子が少し減っている事に気付いた時でした。


 まさか空き巣? と考えたりもしましたが、引き出しに仕舞ってある預金通帳はそのままで、何かが無くなっているという事は無さそうです。


 私のストーカー? なんて馬鹿げた事も考えましたけど、その可能性はすぐに捨て去りました。四十路も近い幸薄女を好んでくれる人が居ると言うのなら、こちらの方からお願いしたい位だからです。

 ……自分で言ってて悲しくなってきました。


 しかしまぁ、捨て置く事はできない由々しき事態である事は確かです。


 自宅の変化は必ず、私が仕事から帰ったタイミングで確認されます。

 という事は、何者かが私のタイムスケジュールを把握して、無人の内に部屋に上がり込んでくつろいでいると考えられます。


 一体誰がそんな訳のわからない事を? それに古いアパートとは言え、ちゃんとした鍵は付いていますし、家を開ける時はちゃんと施錠も戸締まりだってしていきます。


 ……となると、この部屋の合鍵を持つ大家さんが? いや、そんな事あるんでしょうか、一体どんな目的があって?


 ある時なんかは、テレビが付けっぱなしになっていました。

 もう犯人は警戒心ゼロです。いくら私がずぼらだからと言っても、流石にこれには気付くでしょう。


 そんな事が、ある日を境に毎日毎日毎日と続き始めたのです。冷蔵庫の食料品なんかも普通に減っていき始めました。

 くつろぎ過ぎです。

 これではもはや私の部屋では無く、不法侵入して来るその犯人の部屋かの様です。

 この様に犯人は、バレる事もいとわずに、とても堂々としているのです。

 

 何故だがはわかりませんが、あまりその状況にも危機感を持っていなかった私は、ある時に有給休暇を使って突然家に帰ってやる事にしました。

 当然、我が物顔して私の部屋でくつろぐ犯人を捕まえる為です。


 いつもの仕事着を来て何食わぬ顔で家を出ると、しばらく本屋をウロウロしてから昼過ぎ位に自宅に帰りました。


 足音を潜ませながら扉の鍵を開けると、一気に開け放ってやります。


「おー、なんだなんだ」


「なんだ、お父さんか、来るなら言ってよ!」


「お〜〜」


 リビングでは私の父が椅子に腰掛けて、だらしなく足を伸ばしながらみかんの皮を剝いていました。私の事を見もせずに、そこに居るのがさも当たり前かの様にしています。


「もー、心配するから言ってなかったけど、最近家が荒らされてて大変なんだよ、紛らわしいなぁ!」


「お〜〜」


 妙に間延びをした間抜けっぽい声を返しながら、父は立ち上がって換気扇の下に移動すると、煙草を吸い始めました。


「もー! 煙草吸わないでよ臭くなるんだっていつも言ってるでしょ!」


「換気扇の下で吸ってるじゃないか〜」


「それでも臭うの!」


 マイペースな父親にウンザリします。

 と言うかまさか、私の部屋を日々荒らしていたのは父だったりするのでしょうか?

 父はこちらに背中を向けたまま、ぷかぷかと煙草をやっています。

 やがて根本まで吸い終わると、蛇口を捻って火を鎮火して、吸い殻をゴミ箱へと捨てました。

 そして当たり前の様に冷蔵庫を開け、麦茶をコップに注ぎながら私の横を通り抜け、居間に寝転びました。


「もう、なんで来たのよ」


「なんでかな〜〜」


「またお母さんに邪魔者扱いされてうちに逃げて来たんでしょう」


「そうだったかなぁ〜〜」


 ため息をついた私は、父の側に座り込みながらカバンを下ろしました。

 そして父に問い掛けてみます。


「ねぇ、まさかお父さん、ここ最近毎日の様にうちに来たり――」


「煎餅取って来て」


「はぁ? もうなんなのよ、そんなんだからお母さんに追い出されるんじゃないの?」


「それはたしかに〜〜」


 ぷんすか怒りながら席を立った私は、リビングまで行って煎餅を持って来ると、机に肘を付く様な格好に変わっていた父に煎餅を手渡しました。


「さんきう、べりィまっち」


「はいはい」


 父は煎餅を受け取りながら麦茶を一気に飲み干すと、バリバリと煎餅をかじって、頬杖をつきながらに言いました。


「今日はもう帰ろっかな〜〜」


「早く帰ってったらぁ」


 目を細めた私にヒラヒラと手を振りながら、父は玄関から出て行きました。

 玄関の向こうから、カンカンカン、と父が階段を降りていく音がしています。


 娘の部屋を汚すだけ汚してなんなのよ……と心中毒づいていると、私はふと気が付きました。





 ――あれ、




 それでは、先程まで私が当たり前の様に父として接していた男はなんだったのか。


 私自身もまた、今この時までその事を疑わずに当たり前に会話をしていた。


 しかし思い返してみようとしても、どういう訳か、つい今しがたまでそこに居た、父の顔が思い出せなかった。


――――――


『ぬらりひょん』


・出現地域:岡山・秋田


 頭の大きな老人が籠から降り立ち、民家へと上がりこむ姿で描かれる。

 ナマズの様に捉え所の無い妖怪とされ、当時乗り物から降りる事を「ぬらりん」と言った事から『ぬらりひょん』と名付けたとも考えられている。また「ぬらりくらり」と摑み所の無い様から想起された名だとも言われている。

 人に害をなしたという記述は無い。

 妖怪達の総大将という設定と、図々しく人の家に上がり込んで茶をすすったりキセルを吸ったりして、家人が見掛けてもこの家の主人だと思い込んでしまうので指摘する事が出来ない、というのは江戸の時代の創作、誤伝である。

 しかし妖怪とは虚ろなものであり、伝聞によってその時代に合わせて流動的に形を変えるものである為、現在その様に広く解釈されているのならば『ぬらりひょん』の生態として否定する所ではない。それどころか、そういった摑み所の無さがまさに『ぬらりひょん』という妖怪を形容している様にも思える。

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