第四十三頁【濡女】


   【濡女ぬれおんな


 海へと続いた川縁かわべりを歩いていた時の事。

 川のせせらぎを聞きながら、薄暗い夜道を心地良く歩いていると、何か異変に気付いて、太い川の中央にポツンとある、砂利ばかりになった中洲へと視線を投じていた。

 その淵で、白い着物を着た女が中腰になって私に背を向けていた。


 季節は秋。

 背中を向けた、着物の裾は水に浸かっている。

 この凍て付くような寒さの中で、いったい何をしているのだろうと、薄暮れの中に視界を凝らしてみた。

 第一からしてその髪の長い女は、小舟も何も無いのにどうやってあの中洲へと渡ったと言うのだろうか? 両脇の川幅は太い。当然水深もそれなりにある筈だ。


 女がどのような方法で中洲へと渡ったのかはわからないでいたが、まさか、入水自殺というやつだろうか?

 私は息を飲んだ。

 女は腰を屈めて冷たい水をすくうと、そのまま自分の頭をわしゃわしゃと撫で回していた。

 どうやら髪を洗っているらしい。見ればその全身がずぶ濡れである。

 凍えるように寒い筈だ。

 まさか女は、事を起こそうという前に身を清めているのだろうか?

 この令和の時代に、わざわざ死装束に着替えているというのが何よりの証拠では無いだろうか。


「やめてください!」


 私は遠くに見える中洲に立ち尽くした女の背中へと呼び掛けていた。

 しかし私の声は轟々とした川の音に遮られた。

 女にもまた反応は無い。

 川の淵へと走り寄りながら、私はもう一度叫んでいた。

 

「やめてくだ――――あっ」


 女の姿は、前のめりに倒れ込む様に――トプンと水の中へと消えた。水飛沫も立たず、まるであるべき場所へと立ち帰ったかの様な静かな所作であった。


「あ……ぁああ、警察……いや、救急車?!」


 震える手でポケットからスマートフォンを取り出そうとしていると、


 ――私の足元から


 先程まで視線を投じていた中洲からここまでの距離は三十メートルは離れている。

 

 は、一瞬の内に中洲から私の足元へと移動して来て、その両の前腕だけを暗い水面から真っ直ぐに突き出して来たのであった。


 水面から突き上げられた生白い手の先では、布で包まれたが泣いていた。


 ――ありえない。

 

 すぐにそう思った。

 ともすれば今私が目にしているものは幻影なのだろうか?


 ……この、生々しく、顔を歪めながら、小さな手足をもがき、紅葉の様に小さな指を必死に握ったり、開いたりしながら、私の心に得も言えぬ不安感をもたらす泣き声をあげるこの乳児は。



 ――ああ、私の子だったかもしらん。



 この子は私の赤ちゃんだったかもしらん。



 私は自分の赤ちゃんを掬い上げるべく、一歩冷たい水の中へと足を踏み入れた。

 不思議と冷たいとは思わなかった。

 濡れてるとさえ気付かなかった。

 それよりもまず、そこで苦しんでいる私の赤ちゃんを早く抱き上げてやらなければと思った。


 私はそっと、白い腕から我が子を抱き上げる。

 温かく、柔らかみのある感触を腕へと抱え込んだ次の瞬間――


 それは固く冷たい石塊に変わって、その急激な重さに引っ張られた私の体は、水中へと引き摺り込まれていた。


 もがき苦しみながら、冷たさに心臓が止まりそうになる。水は何処までも深く私を連れ去っていく。


 ……いや違う、。巨大な海蛇の尾の様な何かに。


 私はつい今し方までの自分が、あらぬ妄執に取り憑かれていた事をすぐに悟って、抱え込んだ巨大な石塊――先程まで、私の赤ちゃんであったものを手放した。

 すると次の瞬間には、何処までも深いと思われた水深は膝程までの浅瀬に変わり、私に巻き付いていた尾も消え去って、全身ずぶ濡れの姿で立ち上がっていた。


 一歩足を進めると、そこに沈んだ大きな石が足の先に触れた。


――――――


濡女ぬれおんな


・出現地域:新潟・福島・島根


 濡れた長い髪をした女の頭と、巨大な蛇の胴体で描かれる。

 水の怪異と位置付けられる。

 似た姿、似た伝承を持つ妖怪に『磯女』『濡れ女子おなご』『さらへび蛇』が居るが、それら妖怪とは区別されるものである。

 新潟県と福島県の境に現れたとされる『濡女』の伝承では、尾は三町先(三百二十七メートル)あるとされ、見付かれば必ず巻き戻されてしまうという。

 島根県の伝承では、赤子を抱いた女の姿で現れて人を謀ろうとする。『牛鬼』に使われる妖怪、もしくは同じ声であったという事から、化身であるとも考えられている。

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