第三十九頁【ひょうすべ】
【ひょうすべ】
これは一昨年の、私がまだ佐賀県に住んでいた、二十代半ばの頃の話しなんです。
当時私は仕事の都合で、狭いアパートで一人暮らしをしていました。
アパートはそれなりに栄えた街中なんかにあるんですけど、田舎ですから、夜ともなれば周辺はただ暗いばかりで、時折コンビニやファミレスが現れるくらいのものです。
仕事の帰り、暗くなった街中を駅から歩いていました、夜の二十時は回っていた様に記憶しています。
外灯が点々と並んだ閑静な住宅街を歩いていると不意に、
「ひょー」
と鳥の様な鳴き声が聞こえて来ました。
しかしその声がなんだか不気味で、言うなればおじさんの声帯で鳥の鳴き声を真似ているかの様な妙な感じだったので、変に思って上空を見上げていました。
けれどそこには橙色に灯る電灯しかありません。
するとまた――
「ヒョー」
と、今度はずっと近くから声がするので視線を声のした足元の方へと移していくと、近くの藪の中に、ヘラヘラ笑った毛深いおじさんが潜んで私をジッと凝視しているのに気付いてとても驚きました。
その時は言うまでもなく走ってその場をやり過ごしたのですが、今思えばあんなに小さな藪の中に人が入り込める筈も無いと思い直して、猫か何かと見間違えたかの様に考えました。
それから数日ともしないある日、自宅の湯船に湯を張ってからしばらく家事やなんかをこなし、いざ風呂に入ろうと脱衣所に入ると、得も言えない様な臭いが立ち込めているのに気付いて、私は脱衣所で衣服を脱ぐのを辞めて、浴室を覗いたんです。
するとまだ入れたばかりの湯船にびっしりと黒い体毛が浮かんでいて、入浴剤もまだ入れていないのに白く濁っている。そしてこの異臭の出所は確かめるまでも無く、その湯から立ち上っているのです。
震え上がった私はパニックになり、すぐに警察を呼びました。
すぐに赤灯を灯したパトカーが自宅に到着したので現場を見てもらったのですが、アパートの中をくまなく捜索しただけで何もしてくれませんでした。何かあったらまた連絡してくださいと言うだけで、私の家にまで入り込んだストーカーを軽視しているかの様なその態度に、私は憤りを感じました。
騒ぎを聞きつけた近隣住民が野次馬の様になっていて、私はただ恥をかいた有様で泣き寝入りするしかありませんでした。
それから数日後、警察から連絡がありました。電話口から語られるその内容は、いつの間にやら採取していたらしい浴槽の体毛はやはり「人」のものであったらしいという事です。しかしだからと言って注意喚起をするばかりで実際に何かをしてくれる訳ではありませんでした。恐ろしい真実だけ突き付けておいて、「可能ならば住まいを変えた方がいいですね」なんて簡単に言われる始末なのです。
しかし恐ろしいのと気持ちが悪いのとで、もうアパートの浴室を利用出来なくなっていた私は、素直にその助言に応じる事にしたのでした。
今度は少し家賃が高かったのですが、セキュリティーのしっかりとした賃貸のマンションの三階に引っ越しました。
前住んでいた所とは少し距離を離した隣町です。
金銭的には苦しいものがありましたけれど、マンションでの生活は快適で、一月もする頃には生活にも慣れました。
これで一安心だと思っていたいた矢先――
再び浴槽の中の湯船が白濁し、そこにびっしりと体毛が浮かんでいるのです。
私はまた警察を呼んだのですが、対応は以前と何も変わらないものでした。
エントランスに設置されたカメラなんかも調べて貰ったのですが、怪しい人物は見受けられなかったとの事でした。
自宅のセキュリティにも問題は見受けられなかった様ですし、自宅に侵入した様な痕跡もない。しかしそれならば犯人は何処から湧いて出たと言うのでしょうか。
警察を見送る際にエントランスまで降りて行くと、周囲にはサイレンの音を聞き付けた野次馬ができている様でした。警察に通報する際に、音を鳴らさないで来て欲しい旨を伝える事を失念してしていた自分を呪うしかありません。けれどその時の私は気が動転していて、電話口からは、さも今ここで殺人鬼に刃物でも突き付けられているかの様な臨場感を覚えさせたのでしょう。その事について言い訳のしようもありません。
すると何処から私の見舞われた怪奇の詳細が漏れたのでしょう。エントランスに寄り集まった近隣住民の方々へと頭を下げていた私の元へ、腰の曲がったおばあさんが歩いて来てこう問い掛けて来たのです。
「アンタさんはちゃんと
――え? 茄子? 供えてる?
調子外れの問いに私は裏返る様な声で応答していました。
「この辺りの人は畑で出来た初茄子を家にちゃんと祀る様にしとるんだ。じゃないと家にひょうすべが来る言うでな。なに、あんたは遠くから来た人か?」
私がコクリと頷いていると、おばあさんは昔話でもするみたいにそのひょうすべという、この辺りで信仰されているらしい
正直、こんな時に何が妖怪なんですか……と声を上げたくもなったのですが、先の騒動で申し訳の立たない私はおばあさんの話しを黙って聞く事にしました。
――聞くに、ひょうすべは河童の仲間であるらしく、「ひょー」と鳥の様な声で鳴く。好物の茄子を供えておかないと民家に忍び込んで湯船を臭くされ、その湯船には毛が浮かび、触れると死ぬと信じられているのだとか。
……聞いてみると確かに私がこれまでに体験、遭遇したものとピタリと符合する事ばかりで驚きました。
初めのうちは話半分で聞いていた私ですが、おばあさんが言葉を結ぶ頃にはもうすっかりと信じてみようかという気になっていた。
それから自宅に茄子を祀る様にしました。
玄関口と、脱衣所にも一つ、なんだか間抜けの様に見えて嫌なのですが、しばらく茄子を供えておいたのです。
にも関わらず、私は再び汚染された浴槽に遭遇したのです。
――どうして、茄子をお供えしていたのに……。
そう頻繁に引越しをする事も叶わないし、三度目となると警察を呼ぶ事さえ躊躇われました。
しかしやはり恐ろしいので、その日は遠方に住む彼氏を急遽、家に呼んだんです。彼氏とはもう五年程付き合っていましたが、彼は今も地元の福岡県に住んでいたので、到着するのは翌日になりました。
翌朝、私は浴槽をそのままにして彼氏に見せました。
「これがお前の言ってた……おええ、臭い」
泣きそうな顔で彼氏に浴室を調べて貰っていると、彼が「あ」と変な声を出したので肩を跳ね上がらせました。
「空いてるよ」
「え、え? 何が?」
「いや……」
彼ははじめ背後で怯える私を見て、言おうかどうすまいかと逡巡している様子でしたが、やがてその重たい口を開きながら浴室の天井を指差しました。
「天井裏」
固まってしまいました。
確かに浴室には天井裏へと続いた点検口があります。
彼はその点検口が少しズレていると言うのです。
昨日までは確かにぴっちりと閉じられていたのに。
――そこに誰かが……潜んでいたら?
私はその事に気付かずに一晩を過ごしたのです。
もし彼氏が到着するよりも先にそこから何かが這い出して来ていたら……と考えると今でも卒倒しそうな位に恐ろしく思います。
「見てみるよ」
「やめなよ、怖いよ!」
「いやでも、そうなるとアライグマとか害獣の可能性もあるし」
――アライグマが湯に浸かるでしょうか? それに警察はあれは確かに「人毛」であると言っていました。
しかし彼は私の言う事も聞かずにリビングの椅子を一脚浴室へと運び込むと、そこに立ち上がって、屋根裏へと続く点検口を覗き込んだのです。
「何か見える……?」
「ん……あ?」
片腕と頭を捩じ込む形で懐中電灯片手に暗闇の中に視線を彷徨わせていた彼は、やがて何かを手に摘みながら、頭を引っ込めて私の前へと戻りました。
「これ何?」
――彼が懐中電灯と一緒に指の間に挟んでいたのは、幾つかの
ギョッとした私が脱衣所に戻ってみると、確かに供えていた茄子が無くなっています。玄関に供えていたものも、気付かないでいたけれど、いつの間にやら消失していたのです。
結局私たちは、狐に摘まれたかの様な何とも説明の付かない現象に頭を悩ませるしかありませんでした。
引っ越しても茄子を供えてみても収まらないこの怪奇現象は、今後も私に付き纏うのでしょうか?
すると折良く、そこで玄関の呼び鈴が鳴りました。エントランスのカメラを覗くと、そこにあの日ひょうすべについて語り聞かせてくれたおばあさんが立っていたのです。
「やっぱり気になるから見に来た。暇だし」
カメラ越しにモゴモゴと語るおばあさんのお節介に、これ程感謝する日が来るとは思いませんでした。
私は彼と一緒におばあさんを家に招き入れました。
そしてお茶を出しながら、先程あった事を伝える。
ふんふんふん、と振り子の様に頷きながら話しを聞いていたおばあさんでしたが、話しが進むにつれて段々とその表情は険しくなっていくのがわかりました。
「あかんな、憑かれとるわ」
その言葉に、どれ程私が肝を冷やしたかは説明するまでもないでしょう。
私は聞きました。
「どうしたらいいんですか?」
「ううん、居所を変えても追って来る。茄子を供えてあかんならもう……」
私が鬱屈とした表情になっていったおばあさんを眺めてゾッとしていると、おばあさんはシワだらけになった額を引き延ばしながら、突如とその指先で、私の隣に座り込んでまんじりともせずに固唾を飲んでいた彼を指し示したのです。
「アンタ苗字は?」
「え……菅原ですけど」
「それだ! 結婚せい!」
いきなり何を言い出すのでしょう。面食らった私たちですが、確かに付き合ってもう五年になるし、結婚については話し合っていました。
「ですけどおばあさん、こんな怪奇に見舞われている時に突然結婚というのも」
「そうですよ、やっぱりその辺のゴタゴタを解決してからじゃなきゃ、僕たちも気持ち的にも――」
私たちが息を合わせたかの様にそう答えると、優しそうに微笑んでいたおばあさんの目がカッと見開いたのです。
「け、っ、こ、ん――せぇ!」
「ええ……」
有無を言わせぬ気迫に私たちは困惑するばかりでした。
しかし、よくよく聞いてみるとひょうすべには不思議な習性が一つあるらしく、その条件に私と彼が結婚すれば当てはまるのだという。
これも何かのタイミングであるかもしれないと思った私たちは、何かと理由をつけては先延ばしにしていた結婚をこの機に乗じて決めたのでした。
おばあさんに背中を押された様なものです。
そして私たちは結婚し、私の苗字は彼氏と同じ『菅原』になりました。
恐ろしい怪奇を背中合わせにしながらの結婚には妙な感覚がありましたが、確かにそれ以降私の元にひょうすべが現れる事はありません。
――――――
『ひょうすべ』
・出現地域:九州
頭の禿げ上がった猿の様な姿で描かれる。
カッパの仲間であると言われるが、その起源は河童よりも古い。
「ひょー」という鳥の様な鳴き声を発する。
好物は茄子で、九州地方では畑の初茄子を『ひょうすべ』に供える風習がある。
「見ると病気になる」「つられて笑うと死んでしまう」「人に病気を流行させる」とも考えられていた様である。
大変毛深い外観が特徴的であり、民家の風呂に入って汚したり、その湯に触れた馬が死んだという話や、薬湯屋に毎日来て湯を汚すので、ある時湯を抜いておいた所、馬を殺されてしまったという話しがある。
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