第二十九頁【黒塚】


   【黒塚くろづか


 これは俺が大学四年生の頃、内定先が決まったからと自慢のバイクで東日本旅行を楽しんでいた時の話だった。

 東京、千葉、茨城を過ぎ、俺のバイクが福島県の阿部熊川沿いの山奥を通りがかった時、道路に「民宿」の二文字を掲げた風情のある二階建ての日本家屋を見掛けた。その日の宿をいちいち予約してはいないので、大抵は何処ぞの安いビジネスホテルなんかに宿泊するのだが、旅先で気の大きくなっていた俺は、その好奇心から、ろくに携帯の電波も届かない山奥にポツンと佇んだ風情のある宿の門を叩いていた。

 しかし応答が無いので踵を返そうとすると、畑から帰って来た様相である、頭に手拭いを巻いたお婆さんが、カブを一株後ろ手に吊り下げながら目を丸くして俺を見ていた。


「あら、旅の人?」


 途端に糸の様な目で微笑み始めたお婆さんにそう聞かれると、俺は戸惑いながらも頷いてみせた。するとお婆さんが是非泊まっていけと言うので話を聞くと、朝夕食事付きでなんと九百円だと言う、破格過ぎる料金に背を押され、俺はお言葉に甘える事にした。

 中に入ってみると意外にも、その内部は現代風にリフォームされていた。トイレなんかも水洗ウォッシュレットの便座ヒーター付きで驚いた。しかし昔ながらの風情も多く残されていて、家の至る所には古めかしい民芸品の数々が飾られたり、棚の上に所狭しと陳列されたりしていた。廊下には刃物や本物らしい矢尻なんかも壁に立て掛けられていてギョッとさせられたのを覚えている。


 俺の泊まる部屋は二階の洋室だったので少し拍子抜けしたが、清潔でふかふかのベッドが置かれているのでそれで良しとした。ただ電波が届かないのでテレビなんかは無いしスマホも使えないと言う事だった。元来から俺はスマホに依存しているタイプではないので気にはしなかったが……まぁWi-Fi位あれば良いのにな、とは思った。しかしまぁ折角なので昔ながらの暮らしを今も実践するお婆さんの暮らしに触れてみたいと、そう考える事にした。デジタルデトックスというやつだ。


 しばらく二階の洋室で旅の疲れを癒し、夕食前に一階にある風呂に入れてもらった。風呂は源泉掛け流しでなんとひのき風呂だった。心地良い香りとその風情に早くも満足した俺は、破格の値段でこんなに良いもてなしを受けられるこの民宿に感謝していた。


 それから程なくすると夕食に呼ばれた。電波の無い世界で過ぎ去る時間はゆっくりとしていて、それがまた心の疲れを癒すみたいでまた良かった。

 一階の広い和室に移ると、座卓の上にはこれでもかと言うくらいの山の幸が広がっていた。その余りの光景に、俺はもう一度だけ向かいの席で優しそうに微笑んでいるお婆さんに本当に九百円なのかと問い掛けた。正直言ってこの内容ならば電波が届かない不便があるとはいえ五千円ほど請求しても良いように思う。

 しかしお婆さんは俺が来た事がそんなに嬉しいのか、本当はお金なんかも取りたくないのだなんて言う。聞くに、無料だと逆に怪しんで誰も寄り付かないから、仕方なくこの値段設定にしたという経緯があるらしい。

 当時学生の身分であった俺は金銭的に余裕が無かったので、心から嬉しく思い、お婆さんの作る大変美味な山菜達に舌鼓を打った。なんの肉だかは分からなかったが、噛むとほろほろと崩れる小鍋の中の肉が特にうまかった。

 腹一杯になった所でお婆さんに、酒を飲むかと聞かれたが、酒はあまり飲まないので丁重にお断りした。それでは、と最後に熱い茶を出されて俺平身低頭とするしか無かった。まるで祖母に可愛がってもらっているかの様に至れり尽くせりだった。


 しかし旅の疲れでも溜まっていたのだろうか? それから数十分もすると間もなく、俺は強い眠気に襲われて、どうにも堪え切れずに気付いた頃には二階の寝室で眠ってしまっていた。



 夜半、外が大雨となっている中、俺は何かを打ち付ける様な妙な物音で目を覚ました。

 寝ぼけ眼を擦りながら闇に目が慣れてくると、その木を打ちつける様な断続的な物音は自分の鞄の中で鳴っている様だった。カツンカツンと微かに響くかの様な音の出所を探っていると、どうやらその音が、先日東京の護国寺で購入したお守りからしている様に思えたので手に取っていた。

 しかし、手にしてみるともう音がしなくなる。


 俺はまだ寝ぼけているのだろうか? なんの変哲も無いお守りからそんな音などする筈がないじゃないか。

 お守りを鞄に戻し掛けながら再び眠りに着こうとしてみたが、今度は尿意を催して来てしまったので仕方が無く立ち上がった。お守りはまだ手に握っていたのでポケットの中に突っ込んでおいた。


 闇に沈んだ暗い廊下を歩いていく。

 まだまだ眠気が残っていて、と言うか異様な程に眠くて意識も半覚醒のままだった。こんなに眠いのなんて幼少期以来の事の様にも思える。まるで睡眠薬でも盛られたみたいだ、なんて自重気味に考えたりもしていた。

 程無く歩いて一階に降りると、左手に見える突き当たりのドアノブに手を掛ける。立て付けが悪いのか鍵が掛かっているのか、何度か押したり引いたりしてもなかなか開かない。


 ああこんな事をしていたら小便が漏れるじゃないか――!


 ドアノブを強く引くと、微かにドアと壁との間に隙間が出来たので、そこから内部を覗いてみた。


 ……暗い。電気はついていないが、ここは物置の様だ。


 だがやはりまだ俺は寝ぼけているらしい。何故ならそこは昼間一度利用したトイレのある部屋とは違う、対角の方の部屋だったからだ。


 ああ、やはり寝ぼけている。


 だってこんなものがある筈がない。


 こんなものが――。


 ピシャンと近くで落雷があった。

 ――瞬間。明滅した視界の最中に、物置に詰め込まれた白骨遺体の山を見た。



「は?」



 放心していると、やがて眠気が冷めて来て、そうすると今度はみるみると顔が青ざめるかの様に熱を失っていく感覚があった。


 ――ギィい……。ギィい……。


「お兄さん、起きちまったのかい?」


 折角この大雨の音に俺の気配がかき消されていたと言うのに、先程寝ぼけるまま余りにも強くドアノブをガタガタやったせいか、お婆さんが声を出しながら軋む廊下を歩いて来た様だった。


――ギイぃ、ギィい……ギィい。


「お兄さん、どうしたんだい」


――ぎい、ぎい、ギイギイ


「お兄さん、そこを動かんでな」


――ドッ…………どっどっど


「すぐに行くからそこにおるんだよ」



    ――……ドッドッドッドッドッ――!!!!!!



 見ると、廊下の向かいからお婆さんが、手に出刃包丁を構えて前に突き出しながら、老人とは思えない凄まじい速度で走って来ていた。

 訳も分からないうちに目前まで走り寄られていた俺は、髪を振り乱して恐ろしい形相に豹変した鬼の顔をそこに見た。

 そして――


「なんで起きた!!」


「うあああああ!!!」


 俺は自分の右の太腿の深くまで、出刃包丁が突き立っているのに気付いた。

 思わず倒れ込み、顔を歪める。すぐさま俺に覆い被さって二の太刀を浴びせようとして来た老婆を、反射的にもう一方の足で蹴り飛ばしていた。


「よぉくも……がきぃっ!!!」


 僅かに生じた隙に壁を伝って立ち上がった俺は、熱い血をボタボタとフローリングの床に垂らしたまま短い廊下を走り始めた。


「待てぇええ!!」


「たすけて……た、助けて!!」


 昼間のお婆さんとはまるで別人の様だった。糸の様な目をして微笑んで優しい声を出していたのが嘘の様に、その姿も声も、もはや悪鬼の様だった。


「お願いします……神様、神様! まだ死にたくない!」


 何故自分が襲われているのか、その訳も分からずに混乱した俺は、気付けばポケットに仕舞い込んでいたお守りを額に押し当てながら願っていた。

 だがそこで、足を深く負傷していた俺は上手く走れず、仰向けになって転倒してしまった。


 天井を見上げた形になった俺の頭上に振り落ちて来るみたいに、お婆さんが出刃包丁を振り下ろして来るのがスローモーションの様に見えていた。


「――――ぁ???? ……くコ――か??」


「……えっ?」


 瞳を開けると、俺の転んだ拍子に偶然にも壁から落ちて来た民芸品の矢尻が、お婆さんの脳天を貫いていた。

 

 俺に跨ったままカラクリ人形の様な動きを始めたお婆さんは、頭から血の噴水を噴き出しながら倒れ込んで来て、そのまま動かなくなった。



 それからスマホを持ってフラフラと電波の届く範囲まで歩いて下山した俺は、全ての事情を警察に話し、やがて到着した救急車で病院に搬送された。


 病室で目を覚ました翌日、警察からあのお婆さんの家から四人の男性の遺体が見つかったと聞いた。

 あのお婆さんはどうやら民宿に彷徨い込んでくる旅の男達に睡眠薬を飲ませて凶行に及んでいたらしい。

 被害者達はいずれも旅の途中で行方不明となった人達であるらしかった。

 死人に口無し。未だにお婆さんがどうして旅の男達を無惨に殺し続けたのかは分からないでいるが、どうやらその肉を煮たり焼いたりして食っていたのは確かな様だ。

 俺はあの日強く握り締めて形の変わってしまったお守りを胸に、もう旅を切り上げて自宅に帰る事を決めた。


 あの日食べた肉の味を生涯忘れる事は無いだろう。


――――――


黒塚くろづか


・出現地域:福島


 安達ケ原に棲み、人を喰らう鬼婆。「画図百鬼夜行」では解体した遺体の一部を弄ぶ姿で描かれる。

「黒塚」とは本来地名であったが、現在では鬼婆自身の事も指す様になった。

「奥州安達ヶ原黒塚縁起」の伝承曰く、ある日宿を求めた旅の者が、老婆の住んでいた岩屋に招かれる。老婆は薪を取りに行くと言って席を外したが、その際に奥の部屋を覗いてはならないと言う。好奇心から覗いてみるとそこには無数の白骨遺体が積み上げられていて、人を喰らうという鬼婆の話を思い出す。恐ろしくなった旅人は逃げ出すが、その後恐ろしい姿となった鬼婆にものすごい速度で追い掛けられる。目前に迫る鬼婆に絶体絶命となった旅人は荷物から如意輪観世音菩薩を取り出し、必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へと舞い上がり、光明放つ矢を放って鬼婆を仕留めた。その後鬼婆を葬った塚があるその地は「黒塚」と呼ばれる様になった。

 結末に関しては様々なパターンがあるが、概ね結末は同じ様なものである。察しの通り、秋田県の民話にある「三枚の御札」の元となった伝承である。

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