令和に潜む妖怪たち

渦目のらりく

画図百鬼夜行 陰

第一頁 【木魅】


   【木魅】


 目前にそびえる山の鬱蒼とした緑の中に、ポツンと女の白い顔が浮かんでいるのに気付く。


 人の分け入る筈の無い切り立った山の斜面から、眼下に流れる一本の清らかな川を挟んで、古い旅館の一室に胡座をかいた俺と今、窓越しに向き合っている。


 開け放った窓から夏の風が流れ込んで、吊るされていた風鈴がチリンと鳴った。


 都会からこの秘境地に出向き、苦心して到着した旅館の畳にようやくと腰を下ろして、窓いっぱいに見える雄大な自然に心打たれていると、夏の深緑の木々の隙間に、ぽっかりと空間があるのに気が付いて凝視していた。


 そこにハッキリとあるのだ。


 まるで能面の様にピクリと動かない表情。白目が見えない位に大きな黒目は揺れ動く事も無く、夕刻を知らせるひぐらしの鳴き声と、眼下に流れる緑のせせらぎに紛れていた。風に木々は揺れているが、まるでその女の居る一部分だけが写真であるかの様に、ピタリと静止している。


 ……その顔が、妙に白い。まるでモルタルの様に。


 山までの距離はおよそ三十メートル程だろう。俺の視力が中途半端であるからか、女の髪がどうだとか、他の細かいパーツの事はわからない。厳密に言えば老婆なのか若い女なのか、そもそも女であるかすらも厳密にはわからないでいる。

 俺の感じるありのままをただ表現すれば、切り立った一面の緑の中に、女とおぼしき正体不明の白い表情が浮かんでいる、としか言い様が無い。

 まるで低解像度の映像でも観ているみたいに、はっきりとその輪郭を把握しきれずに、ただそこに漠然と“いる”事しか分からないでいる事が、この上もなく俺の恐怖を駆り立てていた。


 そして不思議なことに、俺はそこに確かに佇み、こちらを覗き込んでいる事だけがわかる女から、瞳を離せなくなっていた。


 ……しばらくそうしていると、少し恐怖が薄らいで来ていた。鳴り続ける風鈴の音に気付けされているかの様でもあった。

 いつまでもその女が立ち退かないでいるから、何か心理的な印象によって、複雑に入り組んだ森の景観の中に見間違いをしているのでは無いかと、そう思うようにもなって来る。

 そう考えてみると、今度は自嘲を禁じ得なくなって来る。俺は初めての一人旅行に内心幾許かの恐怖心を覚えているという事になるからだ。


 一体俺は何に怯えているというのだろう。もう恐れるものなど、何も無くなるというのに。

 滑稽だ。


 平静を取り戻した俺はスマートフォンを取り出して、白い顔にカメラを向けて見た。

 やや遠景であるからか、安物のカメラによるスペック的なものであるからか、画面越しにはそこには何か居る様に映らない。

 視線をスマートフォンの画面からスライドして肉眼で見る。するとそこにあった筈の顔が無くなっている。

 騙し絵のようなもので、ほんの些細なキッカケで見えなくなったのだろうか。

 ――また風鈴が鳴った。

 となるとやはり、先程までの白い顔は、自分が作り出した虚像という事になってくる。

 最後の最後までいよいよと情けがないと思うと次に、微かな嘆息が口から漏れ出していた。


 ――もたげた頭を起こすと今度は、生白い腕が一本あった。


 正面の緑のキャンバスの中にポツリと、先程まで顔があったのとは全く違う、視線をそこから数十メートル程右に向けていった木立の中に、白くて細長い右腕が、大木の横から脱力されて垂れ下がっているのに気が付いた。


 頭を振るった俺は今度こそ幻影に惑わされまいと、そちらを注視する事も無く踵を返した。

 きっと疲れているのだ。疲れているから、剥き出しになった木の幹の白っぽくなった所なんかをあらぬものに見間違えている。

 俺は主室の畳から立ち上がって広縁ひろえんへと踏み出し、小さな机と二脚の椅子の間に身を乗り出して薄いレースのカーテンを閉じた。

 風呂に入ろう。

 そうだ、その為に来たのだから。


   *


 他に人の無い露天風呂で長らく乳白色の湯に浸かっていた。あいにくと露天風呂から見える正面の景観は、先程まで俺が空想を見ていた山の緑だった。

 馬鹿げた妄想は忘れようと努めいていた。

 けれど視線は不思議とそちらを確認してしまう。

 するとどうだ、先程白い腕の現れた辺りに、確かに白っぽくなった大木の幹を見付けた。

 何だやっぱりそんな事かと思い、わだかまった不安を振り払ってようやく風呂から上がる。


 踏み込みを上がって襖を開くと、先程締め切ってから出掛けた筈のレースのカーテンが開け放たれて、風に揺れているのが見えた。そよぐカーテンを一方に、窓枠の長方形のフレームの中に、西日に照らされた山が見えている。

 少し不気味にも思ったが、年季の入った旅館なのだから、カーテンの留め具なんかが馬鹿になって風に流されたのかも知れないと思う事にした。

 俺は窓から身を乗り出すと、夜に染まりかけていく山景に、白い腕や仮面の様な顔が浮かんでいない事を確認する。

 ……やはり白っぽい木があるだけだ。

 風鈴が鳴る――。


 宵時に聴くひぐらしの鳴き声が、夏のモヤっとした暑さを連れ去っていく。山あいに木霊こだましていく蝉たちの合唱は、闇に音だけを残して沈んでいく川のせせらぎと同じで、いつまでも続いていく様な気がした。

 こんなに気持ちの良い自然を前にして、俺は何を怯えているのだろう。

 乗り出した体を室内に戻して、右側に寄ったレースのカーテンを再び閉めようと手を伸ばし掛ける。



 ――束になったカーテンの下から、濡れた両足が突き出している。



 目を見張ってしばし考え込むが、そこに人が隠れられるスペースなどは無い。纏まったカーテンの束は壁に沿う様な形でぺたんと沈んでいるのに、そこから下に真っ白い足が、綺麗に両足を揃えた格好で突き出している。

 白い足を伝った水が、じんわりと広縁のカーペットを濡らして色を変えている……。


 ……これはもはや、見間違いだとか言う次元のものでは無い。


 驚愕とした顔を上げると、トプン――と夜に浸かったかの様に俺の視界は暗転していた。


「ぅ……あ?」


 まるで意味がわからなくて、自分の陥った状況が整理出来る訳も無くて……そんな声が闇に反響したのを覚えている。


 次に俺が目にした世界は、燃える様な赤い陽光に染められていた。


 もうすぐ夜に差し掛かろうとしていた矢先に、一体何が起きたのか、はたまた常識では説明の付かない何かが俺の身に巻き起こっているのか。

 混乱した視線上げると、そこに一瞬、おぞましき光景を見る。


 ――山を覆う様に立ち尽くした、白いヒトガタの群れ。 

 俺がこの部屋に来た時に見た、真っ黒い目をした白いヒトガタの大群が、山から突き出た形で俺を真っ直ぐに、無数の視線で見下ろしている。

 それはまるで、そこに生い茂っていた木々が全て正体不明の怪異に置き換わったかの様に、奥に連なる山々にも広がっていた。

 さっきまで静止画の様に直立していたのとは様相を変え、今はまるで山全体に巨大な蛆が湧いて、それが蠢いているかの様にうねうねとして、地中に深く埋め込んだ足を抜き出し始めているかの様でもあった。


 俺はいよいよおかしくなったのか?

 そう思うよりも前に、言語ともつかぬ声を上げていた。

 腰を抜かして尻餅をついた瞬間、深く瞑った瞳の奥に、元の情景が蘇って来ていた。

 ――カナカナカナ、と。

 吹き抜けていく蝉たちの合唱が耳に知覚されている。


 ……瞳を上げると元の夕刻の景観に戻っていた。カーテンの下から突き出した足もない。

 窓を開けて周囲を見渡し、白昼夢でも見たのだろうかと混乱していると、正面に見える山林の中に、表情の無い白い顔が一つある事に気付いた。


「な、なんなんだよ!」


 恐怖に肩を竦められ、思わぬ位に大きな声が出ていた。

 山彦やまびこが、俺の声を反響していく。


「……なんなんだよ」

「…………なんだよ」

「………………だよ」


 するとその白い顔はスッと消えるのである。

 一度大きな声を出したからか、勢いのついていた俺はそのまま山に向かって叫んでいた。


「もうやめてくれ!」


「……やめてくれ」

「…………めてくれ」

「………………くれ」


 ……返って来た声は俺のものでは無かった。


 不気味な声は、次第に音を歪めて最後には不協和音の様になっていた。ひっくり返った様なその声は、明らかに俺のものでは無い。

 さらには山間に消えゆく筈の山彦が、また向こうの山からダレカに叫び上げられたかの様に、こちらに向かって、次第にその声量を上げて返って来る。


「………………クれ」

「…………メ、テクれ」

「……ヤめて、く…………レ――」


 何か得体の知れない者に目を付けられた事を悟った俺は、迫る声から逃げる様に勢い良く窓を閉めて立ち尽くした。








「……………………フ…………」



 この右の耳に、吐息が掛かる位に肉薄したすぐ背後からの声があって硬直するしか無かった。


 ……そしてゆっくりと。




 おそるおそると振り返っていく。



 窓に反射している自分の目が、酷く血走っているのが見えた。


 振り返ると、束になったカーテンの下から再び足が突き出している。

 しかし今度はそこにナニカが確かに存在する様に、薄く向こうの透けて見えるレースのカーテンが盛り上がっていた。

 息をするのも忘れて見上げていくと、

 

 そこに白い人間が埋もれていて、レースを被った不鮮明な顔を、




 ――――ズイと。

 

 俺の鼻先を目掛けて近付けて来た。














 吸い込まれる様な黒い目を目前に突き付けられて、俺は失神した。

 いつまでも続くのだと思われたひぐらしの合唱が止んでいた事に気が付いたのは、この間際だった。


 朝に畳の上で目覚めた俺は、目的を達せぬまま、逃げる様に旅館を後にした。


   *


 それからの俺は、なんだか不思議とそんな気も無くなってしまって、いまこうして数年越しに、その時の体験をここに書き綴っている。



 実は俺はあの翌日、山の中でこの命を断つつもりだったんだ。

 あの時にそう止められていなかったら俺は今頃……。

 思えばあの声の主は、木に宿るとされる木霊こだまのものではなかったのか。きっと山の精霊が俺を引き止めてくれて、この命を現世に繋ぎ止めてくれたんだ。

 







 



 ……そんな風に。


 ずっと、考えていた。


 ――だけど違ったのかもしれない。




 だって……。











 

 ……未だにこの視界の隅で、モルタルの様に白い



 腕が。



 足が。



 蝋人形の様なあの無表情が現れて。



 数年を経て、その姿を徐々に徐々にと克明に、そしてその数を着実に増していきながら、

 日毎に迫り来る能面の様な顔が、俺にこう囁やき掛けて来るから。










 ……ヤメロ。









 ……ハヤクヤメロ。












」って……。



 俺は木霊に引き止められていたんじゃなく、招かれていたのかも知れない。 

 そして死んだら、あの白いヒトガタになる。




 俺がこの話をウェブサイトに上げるのには理由がある。

 もしこの怪異の事を知っている人や、強い霊能力のある人、祓い師の様な人がいたら、ここに連絡して欲しい。

(080-✕✕✕✕-✕✕✕✕)

(nora✕✕@✕✕✕✕✕.com)


 金は幾らでも払う。借金をしたって汚い仕事をしたって何をしたって工面する。

 だからお願いだ……何があっても、俺はあんな化け物なんかになりたくない。

 お願いだ、どうか助けて欲しい、この恩は一生を賭けて返していくつもりだ、心も入れ替えて人の為になる事をするつもりだ。

 お願いだ、だからどうか……どうか……。


 


 もうソコに来ている。

時間がない、もう視界を埋め尽くす位に、アパートを占拠する程に、白い手足がそこら中に垂れ下がって……。


おねがいだ、  しにたくない。

 

 だんだん、おかし  なって……。

街中にも 奴ら ――が

しろい顔が迫  って

気付けば森のこと ばかり――……考え……――――――――ィル












 ぁ








 ――――――――


『N県T村怪死事件について』


 報告

二〇二三年八月二十五日。N県T村◯◯山の麓で、死後少なくとも二年が経過していると思われる白骨遺体が大樹の幹に絡み付かれた形で発見される。

遺体は遺留品から、大阪府枚方市在住の袴田輝夫さん(仮名)四十七歳であると見られ、八年前から行方が分からなくっていた。 

遺体は逆さまになって下肢を大きく引き伸ばす形で幹に絡まれており、上半身には肉に食い込む程に枝葉が突き刺さって百八十度捻じれていた。検視官の見解では人為的には到底不可能であるという事である。死因については目下調査中。

死後二年の経過している袴田輝夫さんの遺体発見現場は比較的見通しの良い山林であり、近くの✕✕✕旅館の一室や露天風呂からも正面に望める地点であったにも関わらず、今日まで何の通報もなく経過していた。

また袴田輝夫さんの物と思われるスマートフォンのデータを復元した所、通信電波圏外のオフライン環境のまま、小説投稿サイト『カクヨム』の「【木霊】」という作品ページに上記作成途中のメモが表示される。事件との因果関係については未だ捜査中である。

報告終り。




――――――


木魅こだま


 樹木に宿る精霊とされる。一説によれば、やまびこの正体はこの『木魅』であるとも言われている。

「画図百鬼夜行」では、百年を経た木には神霊が宿り、姿形を現すと書かれ、樹木の下に佇む老爺と老婆の姿が描かれている。

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