第二十三頁 【姑獲鳥】


   【姑獲鳥うぶめ


 その夢を見る時、私はまず金縛りに襲われる。


 私は白いローベッドの上で身動きすることさえもできずに、無意識に開眼したその視線を、暗闇にぼんやりと浮かび上がった天井のシーリングライトに向けるしか無い。

 無音の時間が経過していく。


 私は、金縛りに見舞われる時は観念して何の抵抗もしない事にしている。抵抗すればするだけ自分の身が見えない何かで縛り付けられているかの様な感覚に陥って、そこから湧き出た私の恐怖が、夢と現実との狭間にいるこの瞬間に、あらぬ空想を現す事を心得ていたからだ。


 体質的に、私は昔から金縛りに合う。初めの頃は恐ろしいモノを見たりもしたものだが、三十も過ぎて達観した私はそんな化学的現象に臆する事も無く、ただ頭の覚醒と体の覚醒とのズレが修正されるのを待つばかりだった。


「…………ぃ……そ……」


 しかしどういう訳なのだろう。ここ半年ほどの間、私が夢と現実との狭間を放浪している時、静かに啜り泣くかの様な女の声が、視線も下げられないでいるベッドの足元の方から聞こえてくる様になった。

 今更私が、この金縛りという現象に恐怖を感じているとでもいうのだろうか? それとも深層心理に目覚めた何かしらの因子が、無意識的にこの女の声を再生しているのか。この半年もの間、ずっと……。


「……そ…………ぅ。……ヵわ……ぃそ」


 ――かわいそう、かわいそう、と。


 うわ言のように何を繰り返している。何を憐れんでいるのか? 私の心の奥底に、繰り返し繰り返しこんな夢を見させる様なきっかけがあるとでもいうのだろうか。


 ……ず。と視線が足元の方へと降りていく。女の啜り泣いている足元の方角へ。


 どういう事なのだろうか、いつも通りの金縛りならばここら辺りで解放される筈なのだけれど、今日はその続きを見せられているらしい。


 微かな声を漏らし続けるその女は、やはり私の足元の所に立ち尽くしてこちらに背中を向けていた。白装束を纏い、ボサボサに乱れた頭を俯かせ、何事なのか悲観に暮れるその声に合わせて頭を上下している。無機質と言われる程に何の飾り気も無い私の部屋の白い壁を背景にしながら、暗闇の中に浮かびあがるその白装束の絹の白色は、腰から下の辺りで血に染まっている。血生臭さがこちらに漂って来るのでは無いかという程の血痕だった。所々が黒い血溜まりとなって凝血している。


「かわぃそう……カわいそぅ」


 徐々にと女の声が鮮明になって来ている。それは女が、仰向けの体制のまま視線だけを足元へと下ろした私に気付いて、徐々にとその後ろ姿をこちらに向かって振り向かせて来ているからであるとわかってしまった。


「かわいそう、かわいそう……」


 半身になる程に振り返った女が腕に抱いているモノを見た私は、心の底より戦慄した。背中に氷水でも流し込まれたかの様な衝撃と嫌気が、鳥肌となって私の全身を覆い尽くす。


 ――赤子を腕に抱いている。


 血に濡れて、赤黒くなった新生児を。

 母へと臍帯の続いたままの。

 今お産をしたとでも言わんばかりに、女の白装束の股ぐらの辺りが、特にドス黒い血に覆われている事をまざまざと見せ付けられながら。


「かわいそう」


 赤子は、死んでいるかの様に身じろぎ一つ、呼吸に合わせて上下する筈のその胸の動きさえも見せずに、ぐったりと間延びした様な四肢を投げ出して、母親に揺すられるまま瞼を揺らし、生気のない口元を半開きにしていた。

 母親は死んでしまった我が子を憐れみ、閉じてしまったその目を開かせようと何度も揺すっている様でもあった。狂気に陥ってしまったその瞳に、そんな事を思う。


 どうして私にこんなものを見せるのか。これは私に対するなのか。だとしたら私自身が私を責めているのに違いない。


 ――もう見たくない。


 瞳を固く瞑ろうと努めてみるが、どうしてか、私のこの目は瞬きさえ忘れた様に剥き上がるばかりであった。


「抱い……て」


 女は正気を通り越した瞳で私を見下ろし、腕に抱いた大切な赤子を私の胸へと差し出してくる。私は女の左の口の端に小さな黒子があるのを血の合間に見ながら心の中で唱えた。


 嫌だ、嫌だ。


 そう願っても言葉にならずに、女は足を引きずる様にしてベッドの傍にまで辿り着き、私の胸に赤子を乗せた。

 失神しそうな恐怖に襲われながら、私は動かないでいた筈のこの腕が私自身の意識を超えながら掛布を捲り上げて前方へと突き出し、とうに死んでいる筈の赤黒い死骸を愛おしそうに胸に掻き寄せるのを見ていた。


 この指に、氷の様に冷たくなった小さな肉の塊が触れた時――。


 ――ドクン、

 死んでいたかの様な赤子の拍動を指先に知覚していた。


 驚いて吐息をするのも忘れていると、赤子は黒目をぐりんと動かして私を見上げた。そして火のついた様に訳の分からぬ言語を話し始めたのだった。


「蛙の顔した胎盤を鴨が引き摺って、小学校の宿題にでた目玉焼きは成人式の確定申告で提出しておきましたから、おんかかかびと言う風もなくいってきます。祭壇のマガツ教、帽子の上の巫女様」


 赤子は話し始めた。それもまるで、見よう見まねで覚えた言語を無茶苦茶に羅列するかの様な珍妙な有様で、激しく、捲し立てるかの様に、素っ頓狂の調子外れの声で、まるで自動音声の機械が壊れてネットの海に泳いだ単語を無作為に拾い上げては読み上げているかの様に、そこには法則性さえもが無いような気がした。


 そうか、この子はきっと、ただ漠然と周囲で見聞きしたものを吸収し、真似しているのだ。

 ……何故か直感的にそう思った。

 この子自身が成長を待ち望んでいるのに関わらず、何時までも赤子のままでいるので、ひとりでに学習を始めているのだ。


「かわいそうかわいそうかわいそうかわいそう」


 母親の繰り返すそれは、いつまでも育つ事が出来ないでいる我が子を思った言動なのか?

 血塗れの女が私の側で狂った様に揺れている。瞳を開けた赤子を嬉しそうに笑って見下ろし始めている。


「群青色のスーツを首に巻いてトーストの旅に出よう。区役所に寄って足首を売ってご飯にするとは夕方のニュースで明日もやっているんだ。サマーセールのさんまえいそわか」


 そして、壊れた機械の様に繰り返した赤子が私の胸でハッキリと言った――微かに微笑むかの様に口角を吊り上げて。 


 ――赤子が次にその口元より言い放った言葉もまた、外界に無限に漂う単語の海から、偶然に拾い上げだけのものだと……どうしてか、そういう風には思えなかった。

 次の言葉は、まるで意思を持ってハッキリとその子の言葉が紡がれたかの様な気がした。





 ――ギュッと、赤子の手が私の首に纏わりついて来た。

 声にもならない悲鳴が頭の中で渦を巻いて、私は失神した。


 ……翌朝。

 ――何か恐ろしいモノが私に取り憑こうとしている。

 そう思った。

 お腹に宿る筈だった我が子を想い、私は下腹部を優しく撫でて、無意識に囁いていた。


「かわいそう」



――――――


姑獲鳥うぶめ


 中国の妖怪である『姑獲鳥こかくちょう』と、赤子や妊婦に纏わる伝承が日本の妖怪である『産女うぶめ』と混同されて「画図百鬼夜行」ではこの字が当てられた。

 お産で亡くなった妊婦が血に濡れた腰巻き姿で赤子を抱いている姿で描かれる。

 伝承には路傍に立ち尽くした『産女』に「赤子を抱いてくれ」と言われ、その様にすると赤子は石へと変わり、要求に応えた者に怪力や富を与えたという話がある。意外にも人に益を与える様子が語り継がれている。

 また「産女」は現代(1984年)にも目撃例があり、静岡市産女(現在の静岡県葵区)の県道にて、『産女』に惑わされたドライバーが痛ましい交通事故を起こしている。その土地の名の示す通り、この地には妖怪『産女』の伝承が残されていた。

 また、東京の足立区の六ツ木交差点でも産女の目撃例があるという。

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