6 黒い船
その船影は思いがけず近く、バタルもすぐに視認できた。船の疾走による混乱で、発見が遅れたのだろう。炭化しているかにも見えるほど真っ黒な船体は、ガザンファルの船よりは小さいようだ。同じく真っ黒な帆はぼろぼろに裂けてぶら下がっていて、役目を果たすようには見えない。代わりに左右からいくつも伸びた細い櫂が水を掻き、こちらを目指していた。その姿は地面を這い回る虫を想起させ、異様であり不気味だった。
突然、ガザンファルの船の船首が大きく跳ね上がった。反動で船尾が沈み込み、勢いで跳ね飛ばされるようにバタルの体が浮き上がる。つかまっていた帆柱から手が離れ、バタルは悲鳴をあげた。
海へ放り出される――寸前、力強い腕がバタルの手をつかんだ。一瞬あとには元の場所まで引き戻され、再び帆柱にしがみつく。そのまま押しつけるようにバタルを支えたのは、指輪から飛び出したゼーナだった。
「ゼーナ! 助かった!」
「いいえ。そのまましっかり、つかまっていてください」
バタルが確かに帆柱につかまったのを見て、ゼーナは船橋のガザンファルの方へと一足で飛んでいった。
急激に船の足が遅くなった。それで先ほどの衝撃が、ロック鳥から銛が抜けたせいなのだと分かった。帆の綱を切ってしまったので、このままでは船は波に流されるばかりになる。
ゼーナが隣に立つと、ガザンファル船長は眉間を険しくしたまま口の片端を上げた。
「
「状況は」
返事はせず、最小限の言葉でゼーナは問うた。ガザンファルも気を悪くすることなく、素早く全体へ目を走らせた。
「鳥の数が増えて、船を引っ張ってた鳥の銛がはずれた。そこに
いかなる時にも軽口を忘れないガザンファルは早口言葉のように言い、ゼーナは了解して頷いた。
「では、元に戻せばよいですね」
「は? 元にって?」
「
聞き返したガザンファルには答えないまま一方的に言い置いて、ゼーナは甲板を蹴った。魔人の体は重さがないかのように舞い上がり、皆振り落とされて誰もいなくなった帆桁に飛び乗った。人ならざるその動きと、腰布が翻って露わになった脚線美に、ガザンファルは口笛を吹いた。
「いい女だぜ、まったく。もったいねぇ」
ぼやきながら、ガザンファルは船橋の手摺りから身を乗り出し、下の甲板の隅々まで轟く声で吠えた。
「野郎共!
見知らぬ娘の出現に、船員たちは一様に驚いて帆桁を見上げた。瞠目して見詰める一同の前で、娘が片手を横に突き出す。すると先ほどロック鳥から抜け落ちて海に沈んだはずの銛が、水滴を散らして一直線に飛来した。綱の垂れ下がるそれをしっかりつかみとった娘は顎を上げ、船を狙って降下してくる巨鳥を見据えた。
「とんでもないな、彼女」
笑みを含んで呆れまじりに呟いたのはジャワードだ。
「誰が見たってそうだ」
なにを今さら、とバタルは言ったが、ジャワードは冷めた一瞥をくれただけで頭上へ目を戻した。
「ぼくが言ってるのは能力の話じゃない。
そういうものだろうかと、バタルは考えた。ゼーナの他は不在にしているズラーラしか魔人を知らないので、比較ができない。そしてジャワードの言葉から、彼が他の魔人を知っている可能性があることにバタルは気づいた。魔法使いの彼ならば、魔人に知り合いがいても不思議ではないだろう。
「お前ら、よそ見してんな! 来るぞ!」
ガザンファルの声で、船員たちの意識が一気に引き戻された。目の前には黒い船と、その上で蠢くさらに黒い生き物。
「あれが
初めて間近に見る漆黒の怪物に、バタルは総毛立った。
黒い船は横腹をぶつけようかという勢いで、距離を詰めてきた。
「こっちに渡らせるな!」
ガザンファルの指示に応えて、射手が矢をつがえ、大男が櫂を振り上げた。しかしその矢が放たれるまさにその時、別の方角から
銛から逃れて一度は飛び去ったと思われたロック鳥が、今度は
「獲物をとり合ってるんだ」
ぞっとする光景から目が離せないまま、バタルは呟いた。ロック鳥が
怪物同士の争いで目の前は凄絶な様相をていしているが、バタルたちにとっては好機だった。当然ガザンファル船長も、それに気づいた。
「野郎共、今の内に――」
頭上からロック鳥の絶叫が降り注ぎ、ガザンファルの檄を掻き消した。振り仰げば、ゼーナが甲板に向かって降下してくる姿が目についた。さらに高い場所では、ゼーナが相手をしていたロック鳥が、藻掻くようにせわしく羽ばたき、がちがちと嘴を鳴らしている。その足のつけ根に、銛が突き立っていた。
「つかまれ!」
誰かが叫んだのと、船首が沈んだのは同時だった。再び、船が疾走を始める。
二度目の疾走は、一度目よりもずっと力強かった。波頭に乗り上げるたび、そのまま彼方まで船が飛んでいってしまいそうだ。着水までの落差で何度も体が浮き上がり、腹の底からひやりとしたものがせり上がってくる。
船を引くロック鳥は人間らの状態など意に介するはずもなく、帰巣本能に従いさらに加速した。こんな状況で力尽きれば、海の真ん中で藻屑となる運命なのは明らかだ。海水をかぶろうが呼吸が苦しかろうが、バタルたちは死に物狂いで船のあちこちにしがみついた。
波に乗り上げたのとは違う衝撃が、船を揺るがした。船底をがりがりと削る固い音と震動、木材の裂ける音が続く。座礁だ。それだけ島の目前まで来たのだ。しかしロック鳥はそんな不穏な音などお構いなしに、船を引き摺り続ける。
止まる手段を持たぬ船の向かう先には、切り立った岩壁がそびえていた。
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