11 始まり

 日没後、ラフィーア妃の居室に来訪者があった。侍女や使用人のたぐいではなく、ラフィーア妃が呼びつけた相手であるらしい。君主スルターンでないことは確かだ。青年魔人二名は揃って、寝室で身を隠すように待たされている。ここは後宮ハリームだ。魔人とはいえ、若い男の造作をしている彼らの姿は見られるべきではない。部屋を仕切る帳越しに聞こえる声から、来訪者が女性であることは分かった。


 ジャワードは昼間と同じように絨毯に寝転び、アラディーンは壁に背を預けてうずくまっていた。二人の間に会話はない。声を出せば、帳一枚挟んだ居間に聞こえてしまうからだ。あまりの手持ち無沙汰から、寝返りを打ってうつ伏せたジャワードは、壁際のアラディーンの方へと腹這いのままにじり寄った。


(なにをする気だ?)


 バタルが怪訝に思っていると、暗い顔で俯いていたアラディーンもジャワードの動きに気づいて眉を寄せた。


 アラディーンの足もとまで這い寄ったジャワードは、黒衣の裾をつかんで引っ張った。反射的に振り払おうとしたアラディーンの手を素早くつかまえて、それを支えにぐいと体を起こす。さらに黒衣の膝に手を置いて身を乗り出し、絨毯の魔人はランプの魔人の顔に顔を寄せた。


 眉をひそめるアラディーンの顎に指先を押し当てながら、ジャワードは自身の口を大きく開いてみせた。同じように口を開けと言うのだ。昼間のことがあるので当然アラディーンは警戒をみせたが、ジャワードが引かないので仕方なさそうに口を開いた。その口へと、ジャワードはなにかを放り込んだ。


 驚いた顔をする黒髪の青年魔人から体を離して隣に座ったジャワードは、自身の口にもなにかを入れた。固い感触が舌の上を転がり、噛めばねっとりと歯にまとわりつく食感と共に口腔が甘さで満たされる。干したナツメヤシだと、バタルはすぐに分かった。食事を必要としない魔人でも、味覚は人間と同じようにあるらしい。


 アラディーンは始めこそ難しい顔で口の中のものを探っていたが、害がないと分かると、隣をちらと窺ってからやや表情を緩めて顎を動かした。それをジャワードは、自身もナツメヤシを噛みながら、満足げに眺めた。


 バタルの知るジャワードは、隙あらば香りの強い水煙草シーシャを吸っていた。甘い味や香りは、魔人にとってよい嗜好品であるのかもしれない。


(そういえば、この頃のジャワードは水煙草シーシャを吸わないんだな)


 ジャワードが水煙草シーシャを愛飲するようになったのにも、なにか背景がありそうだと、バタルは思い巡らせた。


 魔人たちの舌からナツメヤシの甘みがすっかり消えた頃だった。居間の方から女の悲鳴と硝子の割れる音が響き渡った。ジャワードが驚くより先に、アラディーンが反応して宙を飛んだ。ランプの魔人が間仕切りの帳をすり抜けるのとほぼ同時に、さらに重く鈍い音が床を震わせる。一瞬遅れて居間へと飛び込んだジャワードが最初に見たのは、アラディーンの背中だった。身動きせず立ち尽くす黒衣の後ろ姿に異常を感じとり、わずかな怖じ気が胸をよぎる。それでも、なにが起きたのか確認しないわけにもいかず、ジャワードは背の高いアラディーンの体の横から居間を覗き込んだ。


 居間の中央に据えられた円卓の前に、ラフィーア妃が俯き加減に立っていた。乱れ落ちた髪で顔が隠れて表情が見えないが、激しく動いたあとのように肩で息をしていて、普通の状態には見えない。声をかけるべきかと思った矢先、彼女の足もとに目が吸い寄せられた。女が一人、額から血を流して倒れている。


「第二妃……」


 自身の喉から出た声で女の正体を知り、バタルは心臓が凍りついた気がした。とても直視していられる光景ではなかったが、ジャワードが魅入られたように見詰めるので、視線をそらすことができない。止めどなく床に広がり絨毯に染みていく赤に、目眩がしそうだった。


「……わたくしじゃないわ」


 しんとした室内で、蚊の鳴くような呟きがやけに響いて聞こえた。ラフィーア妃の顔が、配下の魔人たちの方へゆっくりと向けられる。その黒い瞳は、彼女の興奮状態を示すように瞳孔が開き、異様な輝きを宿していた。


「わたくしじゃない」


 一度目よりもはっきりとした声で言いながら、ラフィーア妃が右腕を振り上げた。手には、大ぶりの水差しのものだろう硝子の把手だけが握られている。それをラフィーア妃は、倒れている女の顔に投げつけた――周辺の床には把手と同じ色の硝子片が無数に散らばっていた。


 呆然と立ち尽くす青年魔人たちに、ラフィーア妃は足を踏みならした。


「わたくしじゃない。わたくしじゃない!」


 同じ言葉を繰り返してわめくラフィーア妃の方へと、アラディーンが足を踏み出した。不安定な影法師のようにそろそろと主人シディへ歩み寄った黒髪の魔人は長身を曲げて跪き、彼女の足もとに倒れている君主スルターンの第二妃へと手を伸ばす。動かない女の首筋に指を這わせるアラディーンの後ろ姿から目を離せないまま、ジャワードも主人シディに寄り添える位置まで進み出た。ラフィーア妃はすかさず両腕を伸ばして、ジャワードの胸元に縋りついた。


「わたくしは悪くないの。この女が、わたくしを笑ったから。わたくしはなにも悪くない。そうでしょう、ジャワード?」


 ジャワードは黙ってラフィーア妃の肩を抱き、なにも答えなかった。


 立ち上がったアラディーンが、ジャワードを見た。視線を交わしただけで、黒髪の魔人の言わんとするところを察せられた。しかしラフィーア妃は分からなかったらしく、縋りつく手の片方を伸ばして、アラディーンの黒衣をつかんだ。


「大丈夫よね? わたくしは、なにもしていないわよね?」


 紅の瞳が翳った。ランプの魔人は主人シディの視線を避けるように目を伏せ、首を緩く横に振った。


 ラフィーア妃の顔からみるみる血の気が失せていった。震える唇までが青さめ、今にも倒れるのではと心配になるほどだった。


 次に彼女の口から出たのは、かすれた哀願だった。


「……なんとかして」


 ジャワードに縋っていたもう一方の手も伸ばし、ラフィーア妃はアラディーンの黒衣にしがみついた。


「なんとかして。こんなこと知られたら、陛下に嫌われてしまう!」


 罪を犯しておきながら、この期に及んで恐れるのはそんなことなのか、と。バタルは呆れ果て、怒りに打ち震えた。ラフィーア妃の中には本当に、罪意識というものが存在していないのかもしれない。


(一体どれだけ、恥を重ねたら気が済むんだ)


 縋る相手をアラディーンに変えたラフィーア妃は、自身の狼狽をそのままぶつけるように彼の体を揺すぶった。


「この女をどこかへやって。絶対に誰にも見つからないように。血の一滴も残してはだめよ。魔人ならできるでしょう?」


 主人シディの懇願に、ランプの魔人は伏せていた目を開いた。見開かれて震える紅を逃すまいとするように、ラフィーア妃は彼の頬をとらえて真っ直ぐに自分の方を見させた。


「お願いよ、アラディーン。このままではわたくしは破滅よ……助けて、お願い」


 ラフィーア妃の言葉で息をのんだのは、ジャワードだった。彼の動揺がバタルにも伝播し、正常な思考が阻害されて目の前のできごとの把握が急にままならなくなった。


 主人シディを見詰めるアラディーンの瞳が、ぴたりと震えを止めた。瞬きさえもやめた紅の瞳の奥で、炎に似た強い光が灯る。頬に添えられた手を包み込むように自身の手を重ね、ランプの魔人はゆっくりと、その場に跪いた。


「――願いを承りました。主人シディラフィーア」

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