終幕

転生勇者と魔人の物語

 丸めた絨毯を小脇に抱えたジャワードが、工房の扉を開くと、凜とした娘の声が聞こえた。


「ああもう、ヤーセル。また目がずれてるわよ」


 声の主は、工房内に大小いくつも並ぶ織機の内、一番小さなものの前に立っていた。その隣では、垂直に隙間なく張られた絹の縦糸の前にひょろりと細い若者が座り込み、縦糸一本一本に色糸を結びつけ織り込んでいる。ヤーセルと呼ばれたその若者は横からの指摘に一旦手を止めると、軽く体を引いて、まだ三分の一ほどしか織れていない小さな絨毯を眺めた。


「おかしいな。ちゃんと見ながらやってるのに。でも図案となんとなく同じ絵になってるし、これくらいなら誰も気にしないだろう」


 さして深刻でないとしてヤーセルが続きを織り進めようとすると、その手がぴしゃりと叩かれた。


「だめよ。ちゃんと目を数えて。ひと目ずれるだけで、毛足を揃えた時に柄の輪郭がまったく違ってしまうんだから。これじゃあ商品にならないわ。ここまでほどいてやり直して」


 目線より高い位置から強めの口調で言われ、ヤーセルはちょっと首をすくめた。


「こんなに頑張って織り進めたのに、主人シディは厳しいなぁ」

「丁寧な仕事がうちの売りよ。この工房でこれから先も働くつもりでいるのなら、うちの方針に従って貰わないと」


 ヤーセルは哀れっぽい口調で幼馴染みから同情を引き出そうとするも、より厳格な態度で突っぱねられてしまう。仕方なく彼は背筋を伸ばし、糸切り用の細いナイフをとり上げた。


「分かったよ、ファナン。面倒だけど、やり直しだ」


 ヤーセルが慎重に横糸をほどき始めると、ファナンはわずかに肩の力を抜いて息をついた。


 ファナンは年若い女の身ながら、この織物工房の主人シディであると同時に、腕のいい職人だ。本来であればファナンの父と兄が工房の所有者で主人シディなのだが、どちらも長く不在にしているため、今は娘の彼女一人で切り盛りしている。


 織物職人としてのファナンに妥協はない。彼女の織り上げる目の美しく整った絨毯や布地は町の外でも評判がよく、砂漠を渡る商人たちも好んで買いつけに来るほどだ。工房にはファナンの他にも数名の職人が従業員として働いているが、当然ながら彼らにも同等の品質の仕事が求められた。相手が幼馴染みであったとしても、従業員である以上それは変わらない。


 新人教育に熱を入れるファナンにジャワードはふと笑むと、黙々と作業をする職人たちの後ろを通り、並ぶ織機の間をすり抜け、工房内で唯一騒がしい二人の背後に歩み寄った。


 気づいたファナンが声を出すより先に、ジャワードは前屈みになってヤーセルの手元を覗き込んだ。


「君はいつまでたっても不器用だな」


 不意に声をかけられ、難しい顔で横糸をほどいていたヤーセルが、ぎょっと振り向いた。白人アフランジの顔をみとめて、ヤーセルはちらと不快げな表情を見せたが、すぐさま不真面目な若者の顔に戻って肩をすくめた。


「ファナンと比べられたら、誰でもかなわないさ」


 男に興味はないとばかりに、ヤーセルはやや素っ気なく顔をそらして作業に戻る。彼の分かりやすい態度が愉快で、ジャワードは体を起こしてファナンとの距離を一歩詰めた。


「ファナン、荷車に品物を積んでおいたよ」


 ジャワードからの報告に、ファナンは目元をなごませた。


「ありがとう、ジャワード。助かるわ」

「まあ、ぼくは暇だからね。君がもう少し相手をしてくれれば、こんなに暇をせずに済むんだけど」


 台詞の後半でジャワードは声と笑みに艶を含ませ、絨毯を持っていない方の手でファナンの手をとった。繊細な作業を得意とする乙女の手に、顔を寄せる。ところが口元が肌に触れる直前、指先で顎をはたかれた。


「そういうのはやめてって言ってるでしょ。まったくもう」


 ファナンに手を振り払われ、ジャワードはこだわらずに身を引いた。ちらと横目にかたわらを見やれば、ヤーセルがこちらを凝視している。彼はジャワードの碧眼と目が合うと、あたふたと織機の方へ向き直った。予想通りのヤーセルの反応に、ジャワードはおおむね満足して機嫌をよくした。


 ファナンは男二人のやりとりに気づかぬ様子で、ヤーセルに顔だけを向ける。


「ヤーセル。それは急ぎじゃないから、先に納品に行って貰える?」


 なに食わぬ顔で改めて振り返ったヤーセルは、眉を上げて考える仕草をすると、ジャワードに一瞥くれてから素早く立ち上がった。


「了解。すぐに行って、すぐに戻ってこよう」

「よろしくね」

「昼はひよこ豆の揚げ物ファラフェルがいいなぁ」

「はいはい。分かったから、早く行って」


 大股で歩き出したヤーセルが、すれ違いざまにちゃっかり昼食の献立を指定し、ファナンは呆れて腕を組む。ひょろりと縦長い体で織機の隙間を抜けた彼は、出しなにジャワードの方へ指を向けた。


「すぐに戻るからな」


 念を押すように言って、ヤーセルは外へと駆けて行った。幼馴染みを見送ったファナンは、組んでいた腕を解いて腰に当てた。


「まったく。やる気があるんだかないんだか」

「やる気はあるんだろうね。ちょっと不器用過ぎるけど」

「一人で一枚織り上げられるようになるまで、根気よくつき合うしかないわ」


 ジャワードの言う不器用は仕事のことではなかったが、やはりファナンには伝わらなかった。だが、ジャワードがそれを教えることはない。ファナンとヤーセルの距離感は、第三者視点でなかなか娯楽たりえている。さらに外から見れば、その関係にジャワードも組み込まれているだろう。そこまで承知の上で楽しんでいるのが、ジャワードという男だった。


「ジャワードも、そろそろなにか仕事をしてみたら? ちゃんと働く気があるなら、給金だって出すわよ」


 ジャワードの思惑など知るよしもなく、ファナンは雑談の延長の調子で提案した。只人なら悪くないだろう話であったが、ジャワードは小さく鼻で笑った。


「嫌だね。ぼくに金銭は必要ないから、どんな高給な仕事だったとしても、なんの得もないただ働きだ」


 ジャワードには紛れもない事実だったが、ファナンは睨めつけるように片眉を上げた。


「もう少し角の立たない断り方はできないわけ」

「それじゃあ、ぼくらしくないだろう」

「本当に、いい性格してるわ」


 肩をすくめるファナンにもう一度だけ笑って見せてから、ジャワードはこれ以上仕事の邪魔をしないようその場を離れた。


 工房から明るい中庭へと出たジャワードは小脇の絨毯を持ち直し、その足で屋上へとのぼった。真昼の屋上は陽光が直に照りつけて肌を焼き、地元民でも長い時間を過ごすことは滅多にしない。それがジャワードにとっては、人目を憚らず一人で過ごすのに都合がよかった。


 屋上の四面を囲う手摺り壁の内の一面へと、ジャワードは歩み寄った。そこには、天を突く高層建築が無数に並ぶ街の絵が、壁全体を埋めるように緻密な筆致で描かれていた。銀に輝くその街並みは、この世界のものでありえない。だからといって想像上のものでないことも、ジャワードは知っていた。


 作者がなにを考えてこの絵を描いたかに思いを馳せながら、ジャワードは絨毯を敷き、壁画に背を向けて座った。とり出した水煙草シーシャに手際よく水を入れ、草を詰め、炭に点火する。甘い煙をまず一口吸い込むと、脱力して白煙を吐き出し、壁画に寄り添うようにもたれた。


 ジャヌブの町のロック鳥被害は、ジャワードの想像を超えていた。町の中心であり、もっとも人の集まる市場スークの建物が崩壊したのだ。住民たちの様子だけで、犠牲がいかほどのものであったかはすぐに見てとれた。


 けれど、民草の暮らしとは強いものだ。


 不屈の商人たちや支援者らが、通りという通りに多種多様な露天を並べ、そこに集う人々によって、町が再び活気づくのにそれほど時間はかからなかった。とは言っても、全盛期ほど人出ではないし、治安的な懸念も少なからずあった。それでも、人が去って廃れていくよりずっとよいと思える、生き生きとした賑わいだった。市場スークの再建も本格的に始まり、町自体も元の姿をとり戻しつつある。


 砂漠と海に挟まれたジャヌブの町の暮らしは、ジャワードにとってあまりにも穏やかだった。これほど一つの土地で人に交じり、人のような顔で過ごす日々は過去にない。それは大変に居心地がいいと同時に、もの足りなさも感じさせた。人々の活気の中心まで、ジャワードは簡単には入っていけない――絨毯から離れられないからだ。


 ジャワードの絨毯は丸めて片手で抱えられる程度の大きさとはいえ、町中で持ち歩くには少々とり回しが悪い。飛べば楽だが、人の多くいる場所で衆目を集めるのはどうにも抵抗がある。自然と、彼の行動範囲は限られた。自分の依代がもっと持ち歩きやすい指輪や鏡であればと、幾度思ったか分からない。だからきっとバタルも、戦いの場にまで持っていってはくれなかった。


 ジャワードは水煙草シーシャの吸い口を無造作に置くと、絨毯に身を横たえた。仰向けになり、日差しの眩しさから目を覆う。


 バタルの願いでファナンと共にこの町に来て、間もなく二年が過ぎようとしている。織物職人の家はロック鳥被害のあった街区からはずれていたので、多少の空き巣被害はあったが再び暮らし始めるのに大きく困ることはなかった。工房も埃は積もっていたが、織機も糸も、時が止まったようにそのままになっていた。元々才のあった娘は、すぐに家業を蘇らせた。


 二年という時を隔て、ジャワードの支配権はもはやバタルから失われていた。しかし彼の三つ目の願いは、いまだジャワードの中で生きている。


 故郷に帰ったら、身内がいなくとも困らぬよう、妹を傍で守り助けてやって欲しい――自分が帰るまで。


 そう、バタルはジャワードに願っていた。必ず帰る、と言った声は鼓膜に焼きつき、常に意識の底で聞こえ続けている。だから、新しい主人シディを得ようとは到底思えなかった。今、この家を離れるようなことはできない。主人シディバタルを、信じたかった。


(早く、帰ってこい……ぼくがこの暮らしに飽きる前に)


 頬を撫でる風が、涼を帯びた。目を覆っていた手をどければ、日が傾き始めていて、屋上を囲う手摺り壁が広く影を伸ばしている。夕飯の支度をする香りも、そこかしこから漂ってきていた。


 こうして屋上で過ごしていると、時は瞬く間に過ぎていく。このような無為な日々があとどれだけ続くのか。ジャワードはもう、考えることもしなくなっていた。


「ジャワード」


 吹き抜けになっている中庭の方から声がかかり、ジャワードは寝そべった体勢から起き上がった。そこへちょうど、梯子をのぼってきたファナンが顔を覗かせる。白人アフランジの姿を見つけた娘は眼差しを緩めて、小股に歩み寄ってきた。


「またずっとここにいたの?」

「なにか問題かい? できるだけ他人にぼくの姿を見られない方が、君も都合がいいだろう」

「そんなこと一言も言った覚えないわよ。他人嫌いなのはあなたでしょう」


 ファナンはちょっと唇を尖らせて苦情を口にしたが、ジャワードが絨毯の場所をあけてやれば、なにも言わずとも隣に腰を下ろした。ジャワードはかたわらに置いたままの水煙草シーシャに火を入れ直し、夕明かりに煙をふかした。


「家出娘が怪しげな白人アフランジの紐男を連れて帰ったと、もっぱら噂のようじゃないか」


 冗談めかしてジャワードが言えば、ファナンはじろりと横目に睨めつけた。


「あのね、さすがにそこまでの言われ方はされてないわよ。そもそも家出じゃないし。結婚する気はあるのか、とか、根掘り葉掘り聞かれるのが少し面倒なていどよ」


 ファナンの憤然とする内容がおかしく、ジャワードはくつくつと喉を鳴らした。


「それは面白い冗談だ。それで堂々としていられる君も、腹が据わっているけれど」

「あたしにはなにも後ろめたいことないもの。ジャワードが好きなのは兄さんだし」


 ファナンの発言にジャワードは思わず噴き出し、煙に軽くむせながら笑った。


「君もなかなか言うじゃないか」


 ジャワードをわずかにでも動揺させたことに、ファナンはちらと愉悦を見せ、立て膝に頬杖をついた。


「否定したって信じないわよ。毎日毎日飽きもせずに、こんな場所で物思いにふけって、好きじゃないなんて言っても説得力の欠片もないんだから」


 言われてみれば確かにそうだ、とジャワードは自嘲した。背後の壁にそっと体を預け、そこにある筆の跡に指を這わす。この描線一つ一つにまだ知らぬバタルの心根が覗ける気がして、ジャワードの内に淡い切なさが兆した。


「――ねえ、ジャワード」


 これまでと一変して静かな声音で呼ばれ、ジャワードが振り向くと、ファナンがバタルと同じ色の瞳でこちらを見ていた。


「ここで兄さんを待ち続けるの、つらくない?」


 思いがけない問いに、ジャワードの思考が一瞬止まる。顔を正面に戻し、たっぷり時間を使って水煙草シーシャを一口吸った。


「つらくはないかな。それが、バタルの願いだから」


 ジャワードの答えにファナンも前を向き、俯くように立て膝へ口元を埋めた。


「……あたしはつらい」


 ぽつりと、ファナンがこぼす。ジャワードは無言のまま甘い煙をくゆらせて、彼女の言葉に耳を傾けた。


「あたしが最後に見た兄さんは、ロック鳥につかまったあたしを、ぼろぼろになって追いかけてる姿だった。兄さんがあたしを見つけてくれて、ジャワードのお陰で帰ってはこられたけど……兄さんがいないからかな。いまだに、家に帰ってきた感じがしないの」


 言葉の語尾が、かすかに震えた。そこに彼女の、普段は見せない寂しさが透けた。


「あのね、ジャワード」


 再び呼びながら、ファナンが改めて白人アフランジの方を見た。


「あたし、兄さんを探そうと思う――これ以上はもう待てない。それで、できれば、ジャワードにも一緒に来て欲しいの」


 ジャワードの中で、緩やかな驚きが広がった。ファナンの声はさやかで、顔を見ずとも決意の固い眼差しがそこにあると分かる。同時に、ジャワードは体内で血のように巡り始める熱さを感じた。その熱を吐息に乗せて、ジャワードは小さく笑った。


「いいのかい。せっかく家業が軌道に乗ったのに」

「それは仕方ないわ。またしばらく休業ね」

「幼馴染みの彼も放ったらかしかい」


 緊張気味だったファナンの顔が、怪訝にしかめられた。


「どうしてそこでヤーセルが出てくるのよ。彼はあたしがいなくたって、暇することなんかないからいいのよ」


 箸にも棒にもかからないヤーセルの扱いに、ジャワードは別の意味で笑いを堪えられなかった。不憫だと思う一方で、あの軽薄さでは容易に信頼を得られないだろうことも分かる。残念ながら彼にはもう少し堪えて、頑張って貰うしかない。


「分かった、いいだろう」


 ジャワードは水煙草シーシャを置き、体ごとファナンの方を向いて座り直した。灰色と空色の瞳が真正面から交わり、不思議そうに見詰め返すファナンにジャワードは柔らかくほほ笑んだ。


「君が強く願うなら、それを叶えてもいい――君は、バタルを本気で見つけたいと願うかい」


 ファナンの瞳が、ゆっくりと見開かれた。ジャワードがなにをしようとしているか、おそらく彼女は分かっていない。魔人がなんたるかを、教えていないのだから。出会った頃のバタルがそうであったように、ファナンもまた、ジャワードを魔法使いの類いと思っている。それでも、ただならぬものを察してか、ファナンは瞳に刹那の揺らぎを見せ、直後には意志の強い輝きでジャワードを見据えた。


「あたしは、兄さんを見つけたい。今度こそ、またこの家で、兄さんと一緒に絨毯を織りたい」


 ファナンの答えに、ジャワードは満足して笑みを深めた。


「それじゃあ――ファナン、ぼくと契約といこうか」



 ✡



 パソコンの電源を落としてデスクの上を手早く整えた彼女は、ブラウンレザーのトートバッグをとり上げて席を立った。


「お先に失礼します」


 退勤の決まり文句を言いながらタイムカードに打刻し、足早に社屋をあとにする。駅に向かう道すがら、黄昏の光を頼りに腕時計を確認した。


 今日は定時ちょうどに退勤できたので、普段より少しだけ時間に余裕がある。愛読している作家の新刊がつい先日に出ていたはずだと考え、駅ナカで本と、明日の朝食用のパンを買って帰ろうと決めて歩幅を広げた。


 その時、つま先にこつりとなにかが当たった。石でも蹴ったかと思い、足を止める。常ならば気にせず行くところだが、この日はたまたま、おろしたてのパンプスを履いていた。できれば、あまり早々に傷をつけたくはない。確認のために彼女は俯き、しかしその視線はパンプスのつま先ではなく、アスファルトに落ちている金の輝きに吸い寄せられた。


 それは、細く円を描く金の指輪だった。


 彼女の心臓が大きく跳ねた。胸が早鐘を打ち、喉の奥になにか詰まったような息苦しさを感じる。彼女は恐る恐る手を伸ばし、足もとの指輪を拾い上げた。間近に見た指輪には小さな赤い石が一つ輝き、輪の内側に細かな文字が刻まれていた。


 指輪を握り締めた彼女は、やかましい心音を抑えようとするように、その手を胸に当て、周囲を見回した。黄昏時のオフィス街は、仕事を終えた会社員たちが多く行き交い、人の波が絶えることがない。しばらく迷った末に彼女は、人の流れを横切り、ビル間の狭い路地へと身を滑り込ませた。


 その路地は、高いビルに日差しが完全に遮られ、夜と変わらぬ暗さだった。幅も人が一人通れるほどしかなく、コンクリートに積もった排気の煤と埃が足を踏み出すたびにでふわりと渦を巻いた。新品のパンプスが汚れるのも構わず彼女は早足に進み、誰の目も届かぬだろう奥まった場所でようやく足を止めた。


 改めて、ここまで大切に握ってきた指輪を彼女は見下ろした。暗い路地であってもその指輪は、冴えた輝きを見せていた。


 はやる気持ちを抑え込みながら、細い指輪を慎重につまみ上げる。輪の内側を三度、ゆっくりとこすった。


 指輪から金の煙が噴き出した。思わず身を反らせる彼女の前で、煙は広がることなく寄り集まり、人の形をなしていく。現れたのは、小麦色の肌としなやかな手足の若々しい青年。ターバンの作る影から、灰色の瞳が彼女の姿をとらえた。


 ああ、と。彼女は思った。


(わたしは、この人を知っている――)


 こみ上げるものを堪えるように、顔を覆う。


「バタル、様……」


 名前を呼べば、青年は灰色の目を切なく細めて、ほほ笑んだ。


「――やっと、見つけた」


 その声も、彼女の記憶の中に刻まれているものと寸分の狂いもなく重なった。


 それ以上、我慢をできるはずがなかった。胸の内で瞬く間に肥大した懐かしさと愛しさが、涙となって目からあふれた。堰を切ったように泣きじゃくり、嗚咽を漏らす彼女に青年は苦笑し、手を伸ばして指先で目元を拭った。


「君はいつも泣いてる気がするな――姿が変わっても、なにも変わってない」


 思いやりある声と温かな手の平に、彼女はさらに涙をあふれさせた。


「バタル様……主人シディバタル様……」


 青年が、おかしそうに小さく笑い声をたてた。


主人シディはもう違うだろう」


 言いながら、青年は頬に触れていた手を彼女の首の後ろまで伸ばし、そっと抱き寄せた。彼女も応えて、彼の背中に両腕を伸ばし、強く縋りついた。青年が、彼女の耳元に唇を寄せた。


「時間がかかって、ごめん」


 悔いるような囁きに、彼女は首を大きく左右に振った。


「信じてました。必ず、見つけてくれるって――ありがとうございます。わたしを見つけてくれて」


 彼女の耳元で、青年が息をのむのが聞こえた。彼女の身を抱き締める力が、にわかに強くなる。


「――ありがとう。おれを待っていてくれて」


 ふと、抱く腕の力が緩んだ。体は離さないまま、青年は彼女の顔を覗き込むように、額と額を合わせた。奥行きのある灰色の眼差しが、愛しげに細まる。


「おれは、スライマンが作りし指輪の魔人ゼーナの力を受け継いだバタル。この度の、ご主人様シディの名前を教えてくれるか」


 彼女は涙を止めるのを諦め、バタルの瞳を見詰め返してほほ笑んだ。


「わたしは――」





 千夜一夜の転生英雄譚 ― 織物職人バタルと不死身の魔人 ― 完

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千夜一夜の転生英雄譚 ― 織物職人バタルと不死身の魔人 ― 入鹿 なつ @IrukaNatsu

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