22 終末

 目蓋に光を感じて、バタルは緩慢に目を開いた。青と金で彩られた妙に豪華な天井が視界に入り、ここはどこだったろうかと、起き抜けのぼやけた頭で考える。無数の灯火にきらめく天井がマシュリカ国の宮殿のものと理解すると共に、直前のできごとがじわじわと蘇ってくる。


 アラディーンとの戦いの末に、自分の体に突き立った刃を思い出したところで、バタルは慌てて体を起こそうとした。バタルが生きているということは、アラディーンも生きているということではなかろうか。だとしたらマシュリカ国は、他の魔人たちは、地下牢の女たちは、妹ファナンはどうなったのか。


 だが、焦燥のまま起き上がりかけたところで胸元に重みを感じ、バタルは動きを止めた。横たわる彼の胸に上体を預けて、指輪の娘魔人が身を伏せっていた。


「……ゼーナ?」


 呼びかけてみるも、ゼーナは反応を示さない。バタルには状況がまるで分からなかったが、自身の着衣が真っ赤に塗れているのに気づき、少なくとも短剣で刺された記憶に間違いはないだろうことだけ理解した。バタルの体から溢れたろう血が、背中まで濡らしている感触がする。そこにゼーナの艶やかな栗色の髪までが広がり、彼女の服にも赤色が染みていた。しかし、バタルの腹を貫いたはずの短剣はどこにも見当たらない。不思議と、体の痛みもなかった。


 バタルはもう一度、娘魔人の肩に手を置いて揺すりながら呼びかけた。


「ゼーナ、ゼーナ。皆はどうなったんだ。状況を教えてくれ――」


 ゼーナの輪郭が頼りなく揺らいだ。バタルは、はっとして彼女の体に視線を巡らせ、足先から淡い金の煙が立ちのぼっているのを目にとめる。魔人が自在に煙へと姿を変えるのは散々見てきたが、バタルが知っている変化へんげとは様子が違った。魔人の煙は明らかな意思を持ち一塊になっているものだが、今のゼーナの体が変化している煙は立ちのぼったそばから霧散し、空気に溶け消えていた。


「ゼーナ!」


 バタルは跳ね起き、ぐったりとしている娘魔人を抱き寄せた。


「ゼーナ、どうしたんだ……ゼーナ……ゼーナ!」


 顔にかかる髪を払い、頬を軽く叩きながら、何度も呼びかける。そうしてようやくゼーナが薄く目を開いた。緑の瞳がバタルをとらえ、ふわりとほほ笑んだ。


「バタル様……よかった」


 ゼーナが弱々しく腕を持ち上げたので、バタルは意識を繋ぎ止めようとするようにその手を握った。


「なにもよくない。どうしたんだ、ゼーナ。一体、なにが起きてるんだ」


 動揺のあまり、バタルはつい問い詰める口調になった。けれどゼーナはほほ笑むばかりで、なにも答えようとしない。必死に原因を考える中で、ふとバタルは、なぜ自分は眠っていたのかという疑問に辿り着いた。思い立って、自身の腹部に手を当てる。血でべったりと濡れた着衣には、刃物によるものだろう裂け目ができている。けれどその下の肌に、傷らしきものはなかった。


 バタルの中で急速に、できごとが繋がった。腹を刺されたところで、ぱたりと途絶えている記憶。その感覚には、覚えがある。それはバタルが、バタルとして生まれる前――生まれ変わるきっかけとなった、死の記憶だ。


「まさか、おれを……生き返らせたのか?」


 恐る恐る問うたバタルに、ゼーナはやはりなにも言わない。彼女はただ、ゆっくりと瞬きをした。バタルはわななき、ゼーナを強く抱いて項垂れた。


「なんて、馬鹿なことを……」


 死者を生き返らせるのは禁じられていると言ったのは、ゼーナ自身だ。生まれ変わりならば禁に触れないと証明したのも彼女であるのに、なぜ今回はそうしなかったのか。バタルには、理解できなかった。


 ゼーナの体は、もう半ばまで消えていた。悲嘆に暮れる猶予はない。彼女を失いたくない一心で思考を巡らせる。かつて彼女が諦めなかったからバタルはここにいるのだ。バタルもまた、彼女を簡単に諦めたくはなかった。


「願いごとが、二つ残ってたな。まだ有効か?」


 希望を込めて、バタルは耳元で尋ねた。ゼーナが力なく頷きを返す。


「はい……わたくしが、消える前なら――」

「消えるな。消えないでくれ。これからも、おれの傍にいてくれ」

「それは……できません。魔人の理には、逆らえません」


 被せ気味に言ったバタルの願いを、ゼーナは苦しそうに否定する。それならばと、バタルは縋るようにゼーナの髪に口元を埋めて、囁いた。


「それじゃあ――生まれ変われ」


 ゼーナが息をのむのがバタルにも伝わってきた。彼女の耳元に口を寄せ、バタルは続ける。


「どの世界でも、どんな姿でもかまわない――いや、できれば人がいいか――生まれ変わるんだ、ゼーナ。それで、生きてくれ」


 ゼーナは萎えた指先で、バタルの服をつかんだ。


「……かしこまりました。うまくできるか分かりませんが……やってみます」


 願いを受けとったゼーナにバタルは小さく頷き、すぐさま言葉を継ぐ。


「それから――」


 抱く腕を緩めてわずかに身を離し、バタルはゼーナの瞳を覗き込んだ。


「三つ目の願いだ――おれを魔人にしてくれ」


 言葉の意味が浸透するのに合わせて、ゼーナの目がゆっくりと見張られた。


「バタル様を、魔人に?」


 二つ目の願い以上の驚きを表わすゼーナに、バタルは頷き返した。今のバタルには、彼女を失わないための方法が他に思いつかなかった。


「魔人は、別の世界へも渡れるんだろう? ――今度は、おれが探すから。ゼーナがおれを見つけてくれたみたいに、今度はおれが必ず、見つけるから……待っててくれ」


 指輪の魔人は言葉を失い、その目からは堰を切ったように涙があふれた。大粒の涙が青ざめた頬を幾筋も伝い、床に落ちる前に煙となって消えていく。もはや自力で腕も上げられないゼーナの目元をバタルが拭い、その手の温度に涙はますますあふれた。


「かしこまりました――待っています。ずっと……ずっと、バタル様を待っています。主人シディバタル様、ずっと……大好きです」


 バタルの目からも、涙が落ちた。困ったような泣き笑いで、若者は指輪の魔人に顔を寄せる。


「おれも……ゼーナが好きだ」


 人間の若者と、魔人の娘の唇が重なった。途端に、若者の姿が金の煙となってほどけていく。魔人も最後の一片まで、煙に変わる。二筋の金の煙は互いに絡み、もつれ、溶け合った。やがて、名残惜しむようにゆっくり、ゆっくりと消えていく。そこにはもう若者の姿も娘の姿もなく、細い円を描く指輪が一つ、落ちていた。


 一部始終を見届け、ただ一人その場に残された鏡の魔人ウマイマは、そっと指輪を拾い上げた。指輪の縁で赤い石が小さく輝くのを眺め、虚しく苦笑する。


「まったく。とんでもないご主人様シディもいたものね」


 指輪の魔人ゼーナが消えたあとどのように主人シディを励ますべきか、一人で思い悩んでいたが、すべて不要になってしまった。魔人がいかに制約に縛られた不自由な存在であるかを知っているからこそ、自ら魔人になろうなどという人間がいるなど、ウマイマに思い及ぶはずがない。


 嘆息して、ウマイマは指輪を頭上へと放り投げた。指輪は金の光の尾を引き、真っ直ぐ上へ上へと昇っていく。やがて指輪は、短剣の魔人が出ていったのと同じ窓から外へと飛び出し、先ほど見上げた時よりも青さを増した空の彼方へと消えていった。


 指輪を見送ったウマイマは一度大きく伸び上がってから、両腕にぐっと力をいれて自慢の筋肉を盛り上がらせた。


「それじゃ、あたしも仕上げの大仕事といくわよ」


 自分自身へと宣言してウマイマは飛び上がり、がらんとした大広間を横切って宮殿の通路へと出た。


 思えば、主人シディバタルは出会いからして印象的だった。いきなり巨人に追いかけられていたのもそうだが、それよりウマイマを驚かせたのは、その時点ですでに二人もの魔人と契約し、絨毯の魔人まで傍にいたことだ。これだけの人数の魔人が同時に一人の主人シディに仕えるなど、少なくともウマイマは聞いたことがなかった。


 バタルは、願いもずいぶんと変わっていた。一つ目の願いで、女にしてくれ、と言い出した時には大層驚いたし、二つ目の願いでは同じ調子で男に戻せと言うのだから、またさらに仰天したものだ。魔王アラディーンに近づくのに大いに有効であったことは確かだが、ウマイマが過去に仕えた主人シディで、願いをこのように使う者はごくごく稀だった――魔人の主人シディは些細な、あるいは一時の欲望で、願いを使い果たす者がほとんどなのだ。


 そしてバタルの願いの極めつけが、三つ目である。


 その願いを叶えるべく、ウマイマは脇見することなく地下へと向かった。


 贅沢なほどに据えつけられた灯火と、真っ白な大理石の床で隅々まで光で満ちているように見える宮殿の中、地下だけは薄闇がはびこり空気までよどんでいるようだった。


 灰色の壁に転々と篝火かがりびの灯る通路を奥へと進めば、しゃがれのある甲高い声が聞こえてくる。聞き慣れた声に安堵して速度を上げれば、目的の地下牢にすぐ行き当たった。陰気な地下牢にあって、華やかな緋色の鸚鵡の姿はぱっと目を引いた。鸚鵡は鉄格子に留まり、牢の内側に向かっていかにもご機嫌に首を揺すり翼を広げている。


「その巨人ときたらそりゃあもう凶暴で、みーんな食っちまったんだ! でも、オレ様は食べられずに済んだんだ。なぜなら、誰よりも賢いオレ様は、気づたからだ。巨人は――」

「コッコちゃん」


 ウマイマが呼べば、鸚鵡のコッコはすぐに話を中断して振り向いた。たくましい鏡の魔人を見つけ、はしゃぐように緋色の翼をばたつかせる。


「ちょうどいいところに来たな! 今こいつらに、オレ様がいかに賢いかを聞かせてやってたんだ」


 コッコは鉄格子の内側を示して、誇らしげに言う。どんな時でも自意識の揺るがない鸚鵡をほほ笑ましく思いながら、ウマイマも牢の中へ目をやれば、多くの年若い女たちが寄り集まるようにそこにいた。体の大きなウマイマが現れたことで、ややおびえさせてしまったようだ。一旦、コッコへと目線を戻し、ウマイマは調子を揃えるように顔の前で両手を合わせた。


「まあ、とっても楽しそう。あたしにも、あとで聞かせてちょうだいね。今は、先に外へ出ましょ」

「やっと外へ出られるのか! 実はここはちょっとじめじめしてて、あんまり好きじゃなかったんだ」


 嬉しげに声をあげて、コッコはウマイマの肩へと飛び乗る。さらに急かすように、細い二本脚でぴょこぴょこと飛び跳ねた。


「さあさあ! 早く出るぞ!」

「ええ、もちろん。こんな場所、さっさと出ましょ」


 片目をつむってコッコに同調しながら、ウマイマは牢の閂がはずれているのを確認して、格子扉を開いた。


「さあ、あなたたちも一緒に出ましょう。食人鬼グールはもういないから、出ても安全よ」


 ウマイマの声かけに、女たちはまだ信じ切れぬ様子で顔を見合わせる。すると、コッコがじれったそうに牢の中へと飛び込んだ。


「オレ様の仲間が大丈夫だって言ってんだから、もう大丈夫だ! オレ様の話の続きは外でゆっくりしてやるから、こんな暗いところ早いとこ出るぞ」


 コッコは女たちの頭上を飛び回り、肩から肩へ飛び移り、行動を促す。そうしてようやく女たちは少なからず警戒を緩めたらしく、立ち上がる者が現れた。最初の数人が牢から出てウマイマがなにもしないと分かれば、残りの女たちも次々に外を目指した。


 牢から出てくる女たちの内、小柄な一人が、扉を押さえるウマイマの前で足を止めた。少女と言えるだろう年頃のその娘は、やや遠慮がちにウマイマを見上げた。


「あの……ありがとう」


 意識せず、ウマイマは笑みをこぼした。


「どういたしまして」


 ウマイマが返せば少女は頬を染めてやっとほほ笑み、他の女たちを追うように駆けていった。

 少女の儚げな背中を見送るウマイマの肩に、コッコが舞い戻った。


「ほら、全員出たぞ。オレ様たちもさっさと行こう」

「ええ、そうね。これから忙しくなるしね」


 うふふと笑いながら歩き出したウマイマの横顔を、コッコは嘴を大きく開いて見た。


「なに! まだやることがあるのか」

「そうよ。今からこのマシュリカ国を、元通りの人の暮らせる国にしなくっちゃ」

「それは大変な仕事だ! ――で、それってすぐにできるのか?」


 コッコは大げさに驚いて体を反らせるも、結局よく分かっていないらしい。それがおかしくて、ウマイマは小さく噴き出して少しだけ声を震わせた。


「ちょっとは時間がかかるかもしれないわね。街を綺麗にして、人が集まれるようにしないと。でも、なんとかなるわ。それがバタルちゃんの願いだし」

「なるほど。でもオレ様がいればなんの問題もないな。賢いオレ様なら、すぐに人を集められるからな」

「確かにそうかもしれないわね。ただ、他にもやることはたっぷりあるから、コッコちゃんにも色んなことを手伝って貰わうわよ」

「よしきた! オレ様に任せておけば、全部うまくいくぞ」


 鸚鵡は自信満々に、胸の羽毛を大きく膨らませた。この鸚鵡といればどんな時でも愉快でいられそうだという確信に、鏡の魔人は破顔して、得がたい友の羽を撫でた。


「頼りにしてるわよ」





 悪しきは退けられた。来たるは歓楽と幸福なり。寛仁かんじんなるスライマンに導かれし者たちに、健やかなる安息を与えられよ。栄光あれ。




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