10 声

 薄暗い谷底には、家があった。ただやはり、とにかく規格外の大きさがある。普通の人間ならば、千人は一度に暮らせそうだ。規模からいえば、神殿か宮殿と言った方が適切かもしれない。これが神殿であるならば、もっと表面を平らに整えて、美しい彫刻までされているはずだ。けれどバタルから見て奥側の岩壁を削り出して作られている外観は、岩肌をそのまま生かした無骨さだった。


 建造物の正面では、ひさしが降りかかる雨を防いでおり、その奥にある簡素な扉は、一体どれだけの木材が使われているのか検討もつかぬほど大きい。扉の横には岩壁をくり抜いただけの四角い窓が穿たれており、そこから漏れている淡い光と細い煙が、住人の存在を示していた。


 巨人は姿こそ野性みが強かったが、その印象とは裏腹にかなり文化的な生活をしているようだ。意外にも、普通の人間と変わらぬ暮らしをしているのかもしれない。


 そういった思いがけない光景を見渡している最中だった。バタルは手前の岩壁が、階段になっていることに気づいた。先ほど地面に消えたように見えた巨人はこれをくだっていったに違いない。岩を削って作られた階段は途中で数度くの字に曲りながら、谷底まで続いていた。


「下りてみよう」

「お気をつけください」


 提案に対し注意を促すゼーナに、バタルは頷き返して階段の方へと体を向けた。階段とは言っても、大きさは巨人の体に合ったものだ。普通の人間が容易に使えるものではない。バタルは段差の縁に腰を下ろしてから、下の段へ飛び降りた。そうして着地に気をつけながら、一段一段、慎重にくだっていく。


 そうして時間をかけて巨人の階段をくだり、谷底に着いたときにはすっかりくたびれて膝が震えそうだった。けれどそれ以上に、バタルはそびえ立つ建造物の威容に圧倒されて立ち尽くした。


「近くで見るとすごい迫力だな」


 巨人の住居だろう建造物は、目の前に立つと上から見た印象よりも圧倒的な規模と存在感を放っていた。そそり立つ扉だけでも、見上げなければ全容が分からぬほどに大きい。ここまで遠目に追ってきた巨人の大きさが急に実感を伴い、バタルを気後れさせた。


「入ってみますか?」


 ゼーナの問いかけに、バタルは少し考え込んだ。このまま迂闊に侵入して、虫のように叩きつぶされては堪らない。巨人が人を食うものなのかも分かっていないので、大丈夫な可能性もあるが、やはり鉢合わせになるのはできるだけ避けたかった。


 ふと、先ほどから煙の流れ出いる窓の下に、白い石の山があるのに気づいた。周囲に注意を払いながら谷底を横切り、近づいてみれば、白い石と思われたものが獣の骨であることが見てとれた。綺麗に肉の剥がされた大小の骨が、おそらく窓から投げ捨てられて、そのままうずたかく積み上がっているのだ。これまでこの島でロック鳥の他に獣らしきものは見かけなかったが、骨があるということはどこかにはいるのだろう。そんなことを考えていると、骨の山の中に人の頭骨らしきものをバタルは見つけた。それで、やはり巨人との和解が不可能なことがはっきりした。


 その時だった。煙が出ているのとは別の窓から、声が聞こえた。


「きゃー、誰かー! 誰か助けてー!」


 確実に巨人のものではないと分かる、甲高い女性の悲鳴だった。その声があまりに耳に馴染んだもので、バタルはざわりと総毛立った。


「ファナン!」


 故郷で最後に聞いた妹の悲鳴が、脳裏で再生される。バタルはいてもたってもいられず、ここがどこかも忘れて扉の方へと駆け出した。入り口の扉は大き過ぎてとても開けるものではないが、扉の下には隙間がある。扉の大きさに比例して広くなっているその隙間は、バタルならば這って通れるだろう。


 バタルは迷わず地面に這いつくばり、扉の下辺に手を伸ばした。勢いのまま建物に滑り込もうとしたバタルの肩を、ゼーナが押さえた。


「だめです、バタル様」


 ゼーナが初めて、バタルをいさめる言葉を投げた。けれどバタルはそれに気づく余裕もなく、魔人の手を振りほどこうと藻掻いた。


「放せゼーナ! 今、間違いなくファナンの声が――」

「申しわけありません、主人シディバタル様。こればかりは聞けません。放したら、わたくしはまた主人シディを失ってしまう」

「そんなことはどうでもいい!」


 ゼーナの痛切な訴えも、バタルはしりぞけた。それで彼女がいかに傷ついた顔をしたかさえ気に留めなかった。とにかく早く妹のもとに行ってやらねばと手足をばたつかせるが、魔人の腕はびくともしない。足掻くバタルのところへ、再び叫びが届く。


「助けてー! 助けて兄さーん!」

「ファナン! 今行く!」


 少しでも妹を安心させてやらねばと、バタルは声を張り上げた。あんなに悲鳴をあげて、一体どんな目にあっているのかと、バタルの中で嫌な想像ばかりがかき立てられる。けれどゼーナに押さえつけられた体は、どうあっても思うようにならない。


「お願いですバタル様。どうか一度冷静に――」


 バタルを説得しようと発せられたゼーナの言葉に、扉の軋む音が重なった。ゼーナが瞬時に反応してバタルを肩に抱え上げ、声をあげる間も与えず階段のところまで飛びのく。段差の影の中に身を伏せたところで、寸前まで二人が前にいた扉が開いた。


 扉の隙間から顔を出したのはやはり、ロック鳥をたやすく狩った毛むくじゃらの巨人だった。その姿が目に入り、バタルも思わず口をつぐむ。先ほどのバタルの叫びは、巨人に聞こえていたことだろう。巨人は体を扉の向こうに置いたまま、なにかを探すようにきょろきょろと首を巡らせている。バタルとゼーナはじっと息を潜めてその様子を見続けていたが、やがて巨人は二人に気づかないまま扉の向こうへと顔を引っ込めた。


 扉がぴったりと閉まり、バタルとゼーナは揃って息を吐いた。そしてバタルはすぐさま起き上がろうとしたが、押さえつけるようにつかむゼーナの腕がそれをさせなかった。


「放すんだゼーナ。おれは主人シディだぞ」


 威圧的にバタルは言ったが、ゼーナはわずかに眉根を寄せただけで動こうとはしなかった。


「間違っていると思ったら意思表示をして構わないと、わたくしに言ったのはバタル様です。どうか落ち着いてください。このまま飛び込んで、どう妹君を助けようというんですか。先ほど巨人がロック鳥を狩るところを、ご覧になったでしょう。バタル様の身があまりに危険です」


 ゼーナの言はその通りだ。頭では理解しても、それ以上の焦燥からバタルは唇を噛んだ。


「でも、このままじゃファナンが巨人に食べられてしまう」

「だとしても、バタル様が死んでしまっては助けられるものも助けられません」

「じゃあ、どうしたら――」

「わたくしが先に、中の様子を見てきます」


 ゼーナの提案に、バタルは首を反らせて彼女を見た。バタルを背中から押さえつけている指輪の魔人は、揺るぎない眼差しで自身の主人シディを見据えていた。


「わたくしが行きます。だからどうか、バタル様はここを動かないでください」


 ゼーナの懇願する声の響きにバタルは、無力だと言われた気がした。けれどバタルに戦う力がないのは事実だ。言葉にされなかったとしても、そう思われていても不思議はない。自覚があるだけに、探し続けていた妹を自らの手で助けに行けないのが、ただただ歯がゆかった。


「……分かった」


 バタルが苦悩の末にやっと引き下がると、ゼーナはゆっくりと縛めを解いた。バタルはゆるゆると体を起こしたが、立ち上がることなくその場に座り込んだ。力なく項垂れる主人シディの前にゼーナは膝をつき、言い含めるように囁いた。


「それでは行って参ります。わたくしが戻るまで、ここにいてくださいね。なにかあれば、指輪をこすって呼んでください」


 静かにゼーナが立ち上がる。離れようとする彼女の手を、バタルは反射的につかんだ。不意を突かれて振り返ったゼーナの緑の瞳を、灰色の瞳で真っ直ぐにとらえる。


「ゼーナも、危ないと思ったらすぐに戻ってくるんだ」


 バタルの案ずる言葉に、ゼーナは目を見開いた。このような心配をされたことが、過去になかったからだ。心優しき主人シディに、ゼーナは温かな気持ちでほほ笑みを返した。


「心配はいりません。魔人は不死身ですから。すぐに戻ります」


 言葉の終わりと同時に、ゼーナの体が溶けて金の煙に変わった。煙はたやすくバタルの指の間をすり抜け、谷底を抜ける風に乗るように飛んでいく。金の煙が吸い込まれるように巨人の住居へと入っていくのを見詰め、バタルは一人で祈った。


(どうか……スライマンの加護がありますように)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る