3 既視感

 市場スークは、ジャヌブの町でもっとも広い面積を誇る建造物だった。縦横に交差する長大なアーケードの下には、ありとあらゆる商店が肩を寄せ合い、ちょっとした日用品から高価な宝飾品まで、必要なものはなんでも揃えることができる。糸の仕入れを終えて繊維製品の区画を出たバタルたちは、品揃えを競うように商品を敷き詰めている店を通りがかりに冷やかしつつ、そのまま食料品の区画へと移動した。


乾燥ヨーグルトジャミードがまだあるから、夕飯はそれで羊肉を煮ようと思うんだけど、いいかしら?」

「いいよ。それじゃあ、最後に肉屋に寄ろう」

「楽しみだなぁ。ファナン手作りの肉料理」


 兄妹のたわいもない会話にヤーセルが浮かれ調子で参加してきて、バタルは彼のこめかみを小突いた。


「夕飯まで食べていく気か、お前は」

「これだけ働いたんだから、かまわないだろう」


 ヤーセルの図々しさに、バタルはファナンと目線を交わし合って肩をすくめた。


 広大な市場スークの中でも、食料品店の並ぶ区画はもっとも人が多い。夕飯時ともなればますますだ。ひしめく人々に押されてはぐれないよう気をつけながら、バタルたちは日常的に使う香辛料と保存のきく豆類を買い込み、予定通り最後に肉屋へと足を向けた。


 肉屋の前には黄色い長頭巾シェイラの女性が先客としていた。店先にいくつも吊された羊肉の向こうでは、店主がひときわ大きな一頭の解体をしている。肉屋では丸ごと一頭の肉を買うこともできるが、頼めば欲しい分だけその場で切り分けて貰うこともできる。


 太い腕で軽快に肉切り包丁を振るった店主は、必要な分だけを油紙に包んで目の前の女性客に手渡した。


「あ、やばい」


 不意にヤーセルが隣で呟き、バタルも同時にはっとした。思い出されるのは、今日の午前中の逃走劇。その時の追っ手が、目の前でにこやかに接客をしている。逃げ切った安堵と午後の仕事の忙しさで、すっかり忘れていた。


 バタルがとるべき行動を思いつく前に、肉屋の店主が先客の対応を終えて黒い顔をこちらに向けた。途端に目を見開き、次の瞬間にはくっきりした白目が激憤で充血した。


「てめぇ! ヤーセル!」


 怒号が轟き、肉切り包丁が勢いよく突きつけられる。


「ひぃっ」


 ヤーセルが隠れるように背中に張りついてきて、バタルは仰天した。


「馬鹿、押すな!」

「無理無理、殺されるって!」

「ちょっと、一体なにしたってのよ」


 肉屋店主の剣幕にファナンまでも恐れをなし、問い質しながらバタルの腕にとり縋った。


 じたばたと押し合って三人が前にも後ろにも行けなくなっている間に、店主が肉切り包丁を持ったまま店の外へと出てきた。ただでさえ筋骨たくましい体に怒りをみなぎらせた巨漢が、あっという間に目前へ迫る。実際以上に大きく見えるその迫力に、バタルは戦慄して今にも腰が砕けそうだった。


 丸太のような腕がバタルの襟をつかんだ。そのまま力任せに横へと押しのけられ、しがみついていたファナンもろともひっくり返る。背に隠れていたヤーセルは慌てふためいて逃げ出そうとしたが、一歩間に合わず胸倉をつかまれ、騒ぎに足を止めた衆人環視の中で吊し上げられた。


「てめぇ、よく平気な顔しておれの前に出てこられたな!」

「違う! 誤解! スライマンに誓って誤解だって!」


 ヤーセルは叫びながら肉屋の腕を叩き、足をばたつかせたが、彼の細腕では鋼のような巨体がびくともするはずがなかった。


「ひとの家の娘に手を出しといて、なにが誤解だ!」


 一帯を震わせるほどの怒号に、当事者のヤーセルだけでなく、声の届く範囲すべての人間がすくみ上がる。ヤーセルをつかんでいない方の手に握られた肉切り包丁が、怒号と共に目の前で揺れるたび、バタルの肝は冷えて生きた心地がしなかった。


 息苦しそうに顔を青くしながらも、ヤーセルは懲りずに言葉を継ぐ。


「いや、だから、あれは、おれが手を出したというより向こうが――」

「おれの娘がどうした!」


 獣の咆哮のような叫びと同時に、肉切り包丁が振り上げられた。ヤーセルはいよいよ悲鳴をあげた。


「わあああ、待った待った待った! なんだ今の!」


 最後だけ別の方角へ気をとられたように、ヤーセルが叫んだ。肉屋は振り下ろしかけた包丁をすんでのところで止めて、不審げに顔をしかめた。今だとばかりに、ヤーセルはさらに畳みかける。


「ほら、今! 奥の方から聞こえただろう。なんだ今の音」


 ヤーセルの発言によって、興奮した野次までが一瞬静まりかえった。ヤーセルの言う音を見つけようと、人々が揃って耳を澄ます。しかし、そのほんのわずかな静寂では、誰もそれらしい音は見つけられず、すぐにざわめきで覆われた。


「てめぇ、あんまりふざけると、このまま腕を切り落とすぞ!」

「違うって、今確かに――」


 市場スーク全体が、唸るように震えた。

 なにごとかと人々が声を交わし合う間に、柱が音をたててきしみ、アーケードの天井が波打つ。


「ファナン!」


 衆人が反射的に頭上を仰ぎ見る中、バタルは咄嗟に妹を引き寄せ覆い被さるように抱き込んだ――天井が崩れる。


 押しつぶされる、と思った刹那、バタルは覚えのある感覚にざわりと総毛立った。脳裏に染みついた死の記憶が、肌感覚を伴って再生される。また同じように死ぬのかと思ったと同時に、それは嫌だと心が叫んだ。妹を、守らなくては。


 目まぐるしく駆け巡る記憶と感情の奔流に押されるまま、バタルは壁際の売り台の下へ夢中で滑り込んだ。


 どうという音と共に地面が揺れ、巻き上がり打ち寄せた粉塵で視界が真っ白になった。砕けた石や木片が間断なく飛来し、全身に打ち当たる。バタルは腕の中で体を縮めているファナンをきつく抱き締め、肩を丸めて必死にかばった。


 真っ白だった視界が少しずつ色をとり戻し始めた。しかし、飛来する瓦礫がなくなったのを肌で感じても、バタルは体が強張ってまるで動けなかった。痛いほどの動悸のせいで、呼吸もままならない。記憶から呼び覚まされた死の手触りが、皮膚から離れない。


 腕の中で、ファナンが小さく身じろぎした。


「……兄さん」


 か細く呼びかけられ、それをきっかけにバタルはようやく息を吸い込んだ。


「……ファナン……無事か」


 バタルがかろうじて発した声はかすれたが、ファナンは胸元で弱々しく頷いた。声を出したことで体の強張りが解け、バタルは震えている妹の背中をさすることができた。


 崩壊の音は、まだあちこちから轟いていた。早く市場スークから離れなければ、さらなる崩落に巻き込まれるかもしれない。バタルは周りの瓦礫を苦労して蹴散らし、売り台の下からやっとのことで這い出た。砂漠からの風で粉塵が洗い流され、視界も鮮明になる。そうして明らかになった惨状に、バタルは息をのんだ。

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