2 記憶

 物心ついた時には、バタルは自分の中の違和感に気づいていた。自分はまだ子供であるのに、大人となったあとの記憶があったのだ。けれどその記憶では、見てきた景色や人の姿、習慣までもが、今の自分をとり巻いているものとあまりにかけ離れていた。幼い頃にはその違いも分からずに珍奇な言動を繰り返して、周囲を戸惑わせたものである。


 部屋に〝エアコン〟をつけてくれ。〝スマートフォン〟が欲しい。〝コンビニ〟で買い物がしたい。〝バイトのシフト〟はどうなっている。〝東京スカイツリー〟はどこへ行けば見えるのか。


 今でこそ、バタルとして生を受けてからの記憶とそうでない記憶の境界がはっきり分かるようになった。しかしそれで、自身の抱える違和感や気味の悪さを拭い去れたわけではなかった。


 これは、バタルになる前の記憶なのだ。いつだったか、悟ったようにそう思った瞬間があった。だから、崩れた足場の下敷きになって意識が途切れたところで、記憶が終わっている。きっと自分はあそこで死んで、織物職人の長男バタルとして生まれ直したのだ。


(……あれは、誰の声なんだろう)


 黙々と絵筆を動かしながら、バタルはぼんやりと考えた。

 記憶にある自分の死の直前、間違いなく奇妙な声を聞いている。

 《かしこまりました。ご主人様シディ》と、確かにそう言っていた。


 バタルのことを主人シディと呼ぶ人物は、機織はたおりを手伝ってくれている従業員以外に覚えはない。さりとて記憶にあるその声が、彼女らのものとも到底思えない。


 ゆえにバタルは、絵を描き始めた。記憶の中にしか存在しない景色を見える形にすれば、手がかりがつかめるのではないか、と。


 幸いにも、幼い頃から親の仕事をまねて織物の図案を模写したり、考えたりするのを楽しみとしていたので、絵は得意だった。


「兄さーん、帰ってるの?」


 階下から若い娘の声がして、描画に集中していたバタルの意識は引き戻された。振り返れば、バタルより先にヤーセルが反応して立ち上がり、屋根中央の吹き抜けから中庭を覗き込んでいた。


「やあ、ファナン」

「あら、ヤーセル。来てたの?」


 軽薄な調子で階下に手を振ったヤーセルに返された声は、たいそう素っ気ないものだった。幼馴染みに対する妹の態度にやれやれと思いながら、バタルは絵筆を置いて立ち上がり、ヤーセルの隣から顔を出して中庭を見やった。


 日除けの青い長頭巾シェイラで髪と首を覆った妹ファナンが、水盤の横に立ってこちらを見上げていた。大きな目に小さな顎をした、近所でも美しいと評判の顔に、今は眉間の皺が足されている。けれどバタルの顔を確認すると、ファナンは兄と同じ灰色の眼差しを和ませた。


「兄さんったら、帰ったら声をかけてって言ったでしょう」


 そういえばと思い、バタルは苦笑いして頬を掻いた。


「ごめん。ちょっとばたついて忘れてた」

「どうせまた、ヤーセルの厄介ごとに引っ張り込まれたんでしょう」


 ずばりと言い当てられ、今度はヤーセルが苦笑して肩をすくめる。


「ファナンからの厚い信頼に涙が出る」

「こういうのは信頼とは言わねぇだろ」


 どこまでも調子のいい幼馴染みに、バタルはげんなりして視線を送った。どんなに非難や罵倒を浴びせられても、けろりとして上機嫌を保っていられる神経の図太さは、少しばかり羨ましくもある。


「まあいいわ」


 ファナンは捨て置くように言って、若者たちを見上げたまま両手を腰に当てた。


「今日は納品が多くて人手がいるの。お昼を奢るからヤーセルも手伝って」


 ファナンにはっきりとした口調で言われれば、ヤーセルに拒否権があるはずもない。彼もそれを分かってか、軽く手を上げて応じた。


「君の手料理が報酬ならいくらでも働けるさ」

「そう。それじゃあ、もう準備ができるから二人とも降りてきて」


 てきぱきと言い置いて、ファナンは早足に調理場へと入っていった。

 ファナンは兄のバタルから見ても美しい娘に育ったものだと思うのだが、真面目さゆえに自分にも他人にも少々厳し過ぎるところがある。家業では彼女のそういう性格に大いに助けられているし、言えば逆鱗に触れるのが分かっているので口にはしないが、兄としてはこんな妹に嫁の貰い手はあるのかとやや心配になるのも事実だった。


 バタルはヤーセルと顔を見合わせてから、広げたままだった絵の具を簡単に片づけて中庭へと降りた。





 薄焼きパンにひよこ豆のペーストホンモスを挟んだ軽い昼食を食べ終えると、バタルたちはさっそく、織り上がった布や絨毯を荷車に山と積み上げた。問屋や商店、染物屋を巡ってこれらを納品し、帰りには次の布を織るための糸を仕入れて帰ってくることになる。


 織物工房はバタルの父が所有するものだが、今は実質、バタルとファナンの兄妹二人で切り盛りしていた。母はファナンを出産したあとの肥立ちが悪く亡くなり、男手一つで兄妹を育て上げた父は異国の織物技術を学ぶため、二年ほど前に砂漠の商隊キャラバンに同行してまだ帰っていない。


 工房では主にバタルが注文を受けて描き上げた図案を、ファナンが織り上げて製品に仕上げている。色彩豊かなバタルの図案と、几帳面なファナンが織り上げる質の安定した絨毯は評判がよく、従業員二人の給金を払っても食べるに困らないくらいには商売として成り立っていた。


 壁一面に並べられた顔ほどの大きさもある糸玉を、バタルが一つ一つ見比べていると、ヤーセルが後ろから手元を覗き込んできた。


「まだかかりそうか?」


 薄い長身を丸めているヤーセルの横顔をちらとだけ見て、バタルはすぐに目線を糸玉に戻した。


「いや、もう終わる。退屈なら外を見てきたらいいだろう」

「ファナンに昼飯で雇われてるからね。雇い主から離れるのはよくないだろう?」

「はいはい」


 もっともらしく言うヤーセルへ粗雑に返しながら、バタルは素直でない幼馴染みに内心で肩をすくめた。


 ヤーセルはファナンに惚れている。本人がはっきりそう言ったことはないが、長く一緒にいれば、彼が常にファナンと過ごす理由を探しているのが分かる。なにかとバタルに絡んでくるのも、その理由作りの一環なのだろう。ならば女遊びなどせず、誠実に当たれば、すげなくされることもないと思うのだが、本命相手にだけは他の女性に見せるような積極性がいまいち振るわないのが、ヤーセルの不器用さだった。もしも積極性が発揮されたとしても、ヤーセルが悪癖を直さない限り妹との交際を認める気はないが。


 茜染めの糸玉を一つ選びとると、バタルは店の奥で商談しているファナンと店主に歩み寄った。


「この藍染めと、それからそっちの黄色を……」

「親父さん、これいくつから安くなる?」


 会話に割り込んで声をかけると、ファナンは少しむっとした表情を見せたが、口髭を蓄えた店主はバタルが抱える糸玉を見て機嫌よく返した。


「四十も買ってくれたらおまけするよ」

「それじゃあ四十」

「ちょっと、兄さん」


 バタルがあっさり決めてしまうと、ファナンが非難がましく上衣ペロンを引っ張った。


「大丈夫だって。次の図案でたくさん使うんだ」


 バタルはファナンの手を上衣ペロンから離させて、代わりに果実のように鮮やかな茜の糸玉を持たせた。


「荷車に乗り切らないから、あとで工房まで持ってきてくれ。ファナン、支払いよろしく」


 商談を終わらせるようにバタルは言って、二人から離れる。


「はいよ」

「まったくもう」


 愛想のいい店主の返事と、不服げなファナンの文句を背中に聞きながら、バタルは手持ち無沙汰にしているヤーセルの肩を叩いた。


「今日の仕事は終わりだ。外出るぞ」

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