4 巨鳥

 建物の石壁は崩れることなく残っていた。けれどその上に乗っているはずの天井はなく、あるのは抜けるような青空だった。天井だったものは瓦礫となって、地面に積み上がっている。その隙間に人の姿を見つけ、バタルはたまらず口を押さえた。記憶にある自分の死にざまがそこにあるようで、ひどく目眩がした。


「兄さん、ヤーセルはどこ」


 ファナンが上衣ペロンを引っ張った。はっとしてバタルは首を巡らせたが、すぐ見える場所に幼馴染みらしき姿は見つけられない。誰よりも早く異変に気づいたのはヤーセルなのだから、持ち前の図太さで逃げ延びていればと期待を抱く。いい友人とは言い切れないかもしれないが、一緒にいて決して不快であったわけではない。彼が死んでかまわないなどと考えたことは、一度だってなかった。


 だが、直視していられぬほど無惨な景色に、バタルの中でわずかな期待よりも悲観が大きく膨らんだ。


 急に、日が陰った。乾燥したこの土地で、影が落ちるほどの雲など滅多に発生しない。不審に思って顔を上げ、バタルは瞠目した。


 見える限りの空を覆い尽くすほど巨大な、鳥がいた。


 斑点のある両翼を広げたその大きさは、視界に収まりきるものではなかった。樹齢を重ねた大木のような脚の片方で三頭もの駱駝を、もう片方で咄嗟に数え切れぬ人間をまとめてつかんでいる。そんな大きさの鳥が三羽も、頭上を旋回していた。猛禽の獰猛さを持つ目が、この場でただ二人だけ立っているバタルたちに向けられる。巨鳥が羽ばたけば、獣臭い風が吹き下ろしてきた。


 ファナンが、恐慌の叫びをあげた。


「やあああ! 兄さん! 兄さんっ!」


 それが唯一の救いかのようにファナンはバタルにとり縋り、泣き叫んだ。バタルは狂乱状態のファナンをどうにか抱きとめるも、身がすくんでそれ以上わずかも動くことができなかった。


 まだ獲物を得ていない一羽が、降下した。


 生きようとする本能が、バタルを走らせた。妹の手を引き、迫る巨鳥に背中を向ける。だが、足場が悪すぎた。どんなに必死に走ろうとしても、積み重なった瓦礫が行く手を阻む。鼓膜をつんざく悲鳴があがり、ファナンの手が、離れた。


 突風で、バタルの体はなぎ倒された。その真上を、ファナンの泣き叫ぶ声が通過する。しゃにむに顔を上げれば、妹の姿が空に向かって遠ざかるのが見えた。


「ファナンっ!」

「兄さんっ!」


 手を伸ばすも、ファナンを捕まえた巨鳥は遠く浮上し、届きようもない。それでもバタルは夢中で立ち上がって、離れていく鳥影を追いかけた。


 山となった瓦礫を掻き分け乗り越えながら、バタルはファナンを救う方法を必死で考えた。空を縦横無尽に飛び回る巨鳥に、地上からどう近づけばいいのか。いっそのこと、ファナンもろとも自分も捕まえてくれていれば、という考えまでよぎる。しかし、巨鳥は獲物を得て満足してしまったらしい。かぎ爪で持てるだけの獲物を手に入れた一羽が、砂漠の方角へ急旋回した。


 行ってしまう。そう焦燥したバタルの目に、高くそびえる多層の家屋が映った。市場スークを中心に一帯の建造物への被害は甚大だったが、レンガ壁が鮮やかなその家屋だけは形を保っていた。バタルは一瞬の判断で、その家屋へ向けて疾走した。


 入り口は開いていた。住民は避難したのだろう。家屋の構造は、高さ以外はどの家であっても大きくは違わない。バタルは中庭の階段から、全速力で上階を目指した。


 屋上は十階層目だった。とっくに息があがって足もとがふらついたが、屋上の端まで駆けて手摺り壁にとり縋った。目の前を、巨鳥の翼がかすめていく。


 二羽が飛び去ったが、最後の一羽が遅れていた。その翼の動きがせわしく高度が低いのは、欲張って捕まえた何頭もの駱駝が重いからだろうか。


 バタルは手摺り壁によじ登った。最後の巨鳥が近くまでくるのを狙いすまし、あらん限りの力で空中に身を投げる。


 かろうじて、巨鳥からぶら下がる駱駝のたてがみをバタルはつかんだ。羽ばたく毎に揺さぶられ、体を振り回されるが、たてがみに指を絡ませて死に物狂いでしがみついた。かぎ爪に捕まった駱駝も、苦しげに唸りながら首を揺すってバタルを振り落とそうとするので、つま先を振り上げて鼻面を蹴りつけた。


「じっとしろ!」


 駱駝がひるんで大人しくなり、バタルはやっと両腕をその長い首に回した。


 バタルが駱駝を黙らせた時には、巨鳥は町を抜けて砂漠の上を飛んでいた。首を曲げて見た背後の町はもう地平線上の影となり、被害状況の確認のしようがない。砂漠の熱波に肌を焼かれながら、バタルは視線を左右に振って妹の姿を探した。


 今バタルがしがみついているのは、ファナンを捕らえた一羽ではない。かぎ爪にぶら下げているのは、大きな駱駝や驢馬ろばばかりだ。おびえて糞尿と涎をまき散らす獣らの悪臭に顔をしかめる。


 他の巨鳥は、バタルから見える範囲にはいなかった。右を見ても左を見ても、波紋様を描く無数の砂丘が彼方まで続いているばかりで、生き物の影ひとつ見つけられない。それでも、巨鳥が獲物を巣に持ち帰るつもりでいるのなら、そこでファナンを見つけられる可能性もある。しかし、それがどれほど町から離れた場所なのか、バタルには分からなかった。熱波で朦朧とし始めた意識を繋ぎ止めようと力を入れ直した指先は、すでに痺れていた。


 巨鳥の体が大きく上下した。バタルの体が振られて浮き上がる。疲労した腕は急な動きに耐えきれず、駱駝の首からはずれた。


 砂の大地に向かって、バタルの体は投げ出された。

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