千夜一夜の転生英雄譚 ― 織物職人バタルと不死身の魔人 ―

入鹿 なつ

序幕

奴隷姫はかく語る

 ごう、と唸りをあげて、金で彩られた大扉が開いた。そこに立つのは、そびえる大きさの扉に対し、あまりに小さく見えるうら若き乙女。金刺繍の鮮やかな礼装ビンダリとヴェールで着飾った乙女が足を踏み出せば、小麦色の喉元に連ねられたメダル飾りがさらりと鳴った。

 

 涼やかなその音色は、しかし鎖を引きずる重く耳障りな音にすぐさま掻き消された。手足に鈍色の枷をはめられた乙女は、大理石の床を素足で踏みしめるように歩を進める。


 無数の丸柱が群生するナツメヤシのように並ぶ大広間には、黒い影がひしめき蠢いていた。人に似たその影の物欲しげな眼差しを全身に浴びながらも、乙女はまるで臆することなく、柱が支えるアーチの下を直進した。


 その様を壇上の玉座から見下ろし、黒髪の青年君主スルターンくれないまなこを細めた。誰であっても手出しを躊躇しようほどに凜然とした乙女の姿は、手足をいましめる枷があまりに不似合いで、これから殺されようという者のそれとはおおよそ思えなかった。


 やがて、青と金の柄タイルが敷き詰められた丸天井の真下に、乙女が立った。大広間の壁といわず柱といわず並べられた千の灯火に照らされ、長い睫毛が、顔を隠すヴェールから透ける頬に濃い陰影を生み出す。乙女は細い顎を持ち上げ、壇上の君主スルターンと真正面から視線を交わした。


 端から見れば、なんたる不敬かと思うことだろう。けれども君主スルターンが老いを知らぬ目元に浮かべたのは、好奇の笑みだった。


「命乞いは好きなだけさせてやることにしている。最期の時だ。申したいことがあれば存分に叫ぶといい」


 聞く者によっては寛大とも尊大とも受けとれる君主スルターンの言葉に、乙女はふっと息を漏らした。


「麗しき君主スルターンよ。ここに来て、わたくしが命乞いをすることはございません」


 ほう、と。君主スルターンは興味深く乙女を見やり、口元を撫でた。


「このまま無抵抗に死を受け入れるということか」


 顔を覆うヴェールの向こうで、乙女の厚い唇がゆっくりと微笑を描く。あまりに艶然とした笑みに、命の危機が眼前あることを理解しているのかと、君主スルターンの中で疑念が首をもたげる。

 乙女はさらに堂々と、胸を張った。


「いいえ。確かに命乞いはいたしません。しかし、君主スルターンにお聞かせしたいお話がございます」

「それは、どういった話か」


 君主スルターンが促すと、乙女は急にかしこまったように両膝をつき、枷の鎖を鳴らしてぬかずいた。


「かの大魔法使いスライマンの魔人に導かれし若者の物語を一つ、ここに献上いたします」


 そういうことか、と君主スルターンは理解した。長い物語を朗じることで、その間だけでも命を長らえようという魂胆なのだと。

 その程度の延命など、逃れられぬ死の運命の前では誤差に過ぎない。だからこそ、君主スルターンは乙女の望みを聞き入れた。


「語るがいい」

「美しき君主スルターンに感謝いたします。大魔法使いスライマンの尽きることなき恵みを」


 乙女は白き床に口づけ、顔を上げた。


「栄光に愛されし君主スルターンよ。これより語りますは、異世界より来たりし勇者の物語にございます。かの者が生まれしはこの地とは異なる世界。天を突く高さの家々が立ち並び、黒く平らかに固められた地面を鉄の乗り物が行き交う世界に、一人の男がおりました」



 ✡



 甲高い電子音を聞きつけ、彼はジーパンのポケットからスマートフォンを引っ張り出した。大股の歩調は緩めないまま液晶画面へ視線を落とし、通知ウィンドウに表示された名前に少しだけ眉をひそめる。一瞬だけ躊躇いはしたものの、彼は諦めの心地で通知ウィンドウを叩いた。それは、アルバイト先から届いたシフト変更依頼のメッセージだった。


 面倒だ、と内心思いながらも、彼はメッセージアプリを一旦閉じ、スケジュールアプリを立ち上げる。メッセージで指定された日時は、偶然にも空欄だった。


 複数のアルバイトをかけ持ちしているので、予定がまったくない日というのは意外と貴重だ。休日がなくなってしまうのは少々惜しい気もするが、その日暮らしのフリーターである彼にとって、出勤を断るほどの理由にはならなかった。


 シフト変更に是と返すべく、彼は再び、メッセージアプリを開いた。


 歩みを進めるつま先に打ち当たるものがあり、彼は反射的に足を止めた。液晶画面から意識が離れると、周囲のものごとや音が急に押し寄せてくるような感覚に陥る。


 彼が歩みを止めたのは、建設途中のビルを囲う白いフェンスの前だった。フェンスの向こうからはキンキンと耳障りな金属音が、人の行き交う通りまで漏れ聞こえてくる。彼が立ち止まったことで急な方向転換をさせてしまったらしい通行人へ軽く頭を下げながら、彼は自分の足もとへと目をやった。


 半歩ほど先のアスファルトに、金の指輪が落ちていた。


 先ほど蹴ったのはこれだろうと目星をつけて、指輪を拾い上げる。細く円を描く指輪には、小さな赤い石が一つ輝いていた。落としものだろうかと眺めれば、内側に文字が彫られているのに気づく。落とし主の名前かもしれないと、彼は文字をなぞるように指輪を数度こすって顔に寄せた。


 その時、近くでひときわ大きく鈍い金属音がした。同時に聞こえたのは、誰かの悲鳴。


 彼が顔を上げようとした瞬間、視界が陰り、頭上からの衝撃と共に体が崩れた。倒れた彼の頭といわず手足といわず、全身に衝撃が降りかかる。


 また誰かが叫んだ。


「誰か! 救急車! 救急車を!」


 見える景色が霞み、彼は自分になにが起きたのか、自らの目で確かめることができなかった。ただ焼けるような痛みを体中が訴え、さらにのしかかる重さのせいでわずかも身動きがとれない。少しずつ、視界までが狭まり始める。一方で、失われる視覚を補おうとするように聴覚が冴えた。


「もしもし……あの、救急です。工事現場の足場が崩れて、人が下敷きに……場所は……」

(……死ぬのかな)


 誰かが電話をしている声を聞きながら、彼は他人ごとのように思った。けれど一瞬あとには、抗う気持ちが生まれた。


(……死にたくない……死にたくない、死にたくないっ)

「生き、た……い……」


 請うように、彼は声を絞り出した。生き物としての本能のままに発せられた声は、細く細くかすれ、誰の耳にも届きようはずがない――かに、思われた。


《かしこまりました。


 彼の耳元で誰かが囁いた。それは柔らかな若い女の声と思われた。

 しかしそれを確かめる間もなく、彼の意識は暗転した。



 ✡



 鼻を鳴らすように、君主スルターンは嘲笑をした。


「死んでしまったではないか。勇者の話だと申すからどんなものかと思えば……やはり、延命のための茶番か」


 けれど、君主スルターンを見上げる乙女の口元から笑みは消えない。むしろ彼女は、くすりと笑い声をたてた。


「焦りなさいますな。物語はまだ始まったばかり。語るべき終末は、水平の彼方にちらりとも見えぬほどに、まだまだ遠くございます」


 確かに乙女は、これで終わりなどと一言も言ってはいない。そう思い直して、君主スルターンは居住まいを正した。


「続けよ」


 乙女は若き君主スルターンの足もとに平伏した。


「比類なき君主スルターンの慈悲に感謝いたします。わたくしの知る物語のすべてを、一片の嘘も偽りもなくお伝えすることをスライマンの名に誓いましょう」


 床に誓いの接吻をし、乙女は顔を上げる。


「ここより遥か南西。七色の海の向こう。灼けつく砂漠の国の、織物職人の家に、バタルという息子がおりました」





 転生勇者と魔人の物語、開幕。

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