5 出航

 真っ白な三枚の三角帆が、空と太陽を覆った。その下では船員たちが、碇を巻き上げる車地しゃちを回し、帆を張るの綱を引き、甲板から帆柱の上まで忙しく駆け回る。男らが呼び合う声に応えるように、帆は風をつかんでまあるく膨らみ、船体を前へ前へと押し出す。


 作業の邪魔にならぬよう船橋に立ったバタルは、肌に打ちつける海風に郷愁を覚え、ゆっくりと目を細めた。潮の香りに混じって鼻先を甘くかすめたのは、隣に立つジャワードの服に染みついた水煙草シーシャの香りだ。彼もまた風を浴びて心地よさげに目を細くし、甲板で立ち働く船員たちを興味深げに見下ろしていた。


 船は輝く飛沫をあげ、高く鳴き交わす海鳥たちと併走を始めた。長く突き出した船首が翠玉色エメラルドグリーンの水面を切り裂き、波穏やかな港から、陽光きらめく虹海へと滑り出る。


 やがて、行く手を遮るもののない沖まで到達すると、これまで大声で叫び交わしていた男たちが徐々に静まった。出航の慌ただしさから一変して、どこかのんびりとした空気さえ流れ出す。甲板で鋭く指示を飛ばしていたガザンファル船長も船橋へとのぼってきて、操舵手といくらか話を交わしてからバタルの隣へとやってきた。


「船酔いしてねぇだろうな」


 気づかいと言っていいものか分からない言葉をかけられ、バタルは軽く苦笑した。


「平気だ。船乗りだったことはないけど、故郷が港町だったから乗船経験は何度かある」

「そりゃあ結構なこった」


 満足そうに返して、ガザンファルはバタルの向こうで手摺りにもたれている白人アフランジにも目線をやった。


白人アフランジの兄ちゃんも余裕そうだな」


 もちろん、とジャワードはターバンからこぼれる金髪を軽く押さえながら答えた。


「船は久しぶりだけど、たまには悪くないもんだね」

「いつもこれくらい波と風の機嫌がよけりゃいいんだけどな。まあ、虹海は内海だから、そうそう大荒れになることもねぇが」


 ガザンファルは上着から羅針盤をとり出して進行方向を確かめ、眩しそうに目をすがめて水平線を見渡した。


「邪魔が入らなきゃ、正午には島に着けるだろ」


 羅針盤をしまったガザンファルに、バタルは改めて向き直った。


「無理を言って悪かった」

「契約は成立してる。無理を通すに見合った報酬なら文句を言いやしねぇよ。まあ、ここでお前らを海に落としてやる案もあるっちゃあるが――」


 ちら、と。ガザンファルは横目にジャワードを見やった。白人アフランジの魔法使いは相変わらずくつろいだ様子で海風にターバンをはためかせていたが、視線に気づいて人好きする笑みを返した。ガザンファルは肩をすくめて、正面に目を戻した。


「そっちの方が危なそうだ」


 それは確かにそうかもしれない、と心底同意して、バタルは右手の指輪を撫でた。

 サージビアの港を出てしばらく、船旅は拍子抜けするほどつつがないものだった。光の網を広げたようにきらめく虹海は安穏とたゆたい、風は彼らの背を優しく押して足を助ける。潮流に乗れば、あとは波と風が船を目的地の近くまで運ぶに任せるのが一番早い。


 見張りと操舵手以外の船員たちは暇を持て余し、甲板に楽器を持ち出して歌い始めた。猛々しくも調子外れな歌声は聞く者の笑いを誘い、船上の誰をも陽気にさせる。弦楽奏者が自慢の技巧を披露すれば、盛大な拍手と口笛が素晴らしき音色を称えた。


 バタルも彼らに歌を教わり、乗せられるままに大いに楽しんだ。これほど明るい気持ちで心置きなく笑ったのは、故郷を出てから初めてのことだ。恐ろしい思いをしているだろう妹への小さな罪悪感がないではないが、暗い感情にとらわれ続けていた気持ちが一時でも軽くなるのを感じ、バタルは気のいい船員たちに感謝した。


「見えたぞ!」


 高らかな歌声を割るように、ガザンファルの声が響いた。手招きされて、バタルはすかさず船首へと駆けつける。目線を合わせるように身を寄せたガザンファルが、船の向かう先を真っ直ぐに指差し、バタルは水平線に目を凝らした。そこには確かに、青く霞む島影があった。


「あれがロック鳥の島」

「そうだ。勝負はこっからだぞ。覚悟しな」


 ガザンファルが言った矢先、島から飛び立つ大きな影があった。それはたった一度の羽ばたきで船との距離を詰め、日の下に全容を明らかにする。斑点のある大きな翼と、猛禽の鋭さのある爪が記憶に焼きついた光景に重なり、バタルはすくみ上がった。

 耳元で、ガザンファルが鋭く息を吐いた。


「おいでなすった」


 ガザンファルは立ち尽くすバタルの腕を強く引き、甲板の中央へ向けて押しやった。


「甲板室に入るか、帆柱にぴったりくっついてな――野郎共! 配置につけ!」


 船全体を轟かすようにガザンファル船長が吠え、船橋へ走った。呼応して、船員たちから鬨の雄叫びがあがる。その時にはすでに、全員が甲板の板を震わせて各々の持ち場へ走っていた。


 より身軽な者が、いち早く帆桁へとのぼっていった。その背には、小振りな波形の弓と矢が背負われている。彼らは上りきったところで注意深く体を固定し、帆柱に巻きつけられている綱を素早く引いた。すると甲板に並べられていた捕鯨用の太い銛が、瞬く間に帆桁の上まで運ばれていった。


「来るぞ! 備えろ!」


 船長が叫ぶ。直後、船とどちらが大きいかという巨鳥が、帆柱をかすめて頭上を通過した。帆と変わらぬ長さのある翼で日が陰る。獣くさい突風に帆が波打ち、船が左右に激しく揺れる。放り出されまいと船首側の帆柱にしがみついたバタルのところまで、冷たい波飛沫が降り注いだ。ごうと唸る音が鼓膜を圧し、一瞬聴覚が失われる。それが波の音なのか風のなのか、あるいはロック鳥の咆哮なのか、バタルには分からない。


「焦るな! よく引きつけろ!」


 混乱する船上であっても、船橋のガザンファルの声はよく通った。頼もしき長の一声で力を得た船員たちが、勇敢に武器を掲げる。船首ではひときわ筋肉の隆とした大男が、身の丈の数倍はあろうかという櫂を振り回し、襲い来るロック鳥を威嚇した。


 ロック鳥が再び、頭上に迫る。瞬間、ひょうと弦の鳴る音が空気を裂いた。帆桁にのぼった者たちが、一斉に矢を放ったのだ。矢一本では針のごとくであろうとも、束となれば脅威となる。ひるんだロック鳥が、せわしく羽ばたき急旋回した。逃がすまいと、甲板からも矢が射かけられた。小さな弓から放たれたとは思えぬ力強さで翼が射貫かれる。ロック鳥の高度が落ちたその瞬間、帆桁の一人が弓を銛に持ち替え、叩きつけるように投げた。捕鯨の銛が巨鳥の脚のつけ根に突き立つ。鼓膜を貫く悲鳴が海上に轟き渡った。


 バタルは帆柱にしがみついて動けぬまま、船員たちの戦いぶりに息をのんで見入った。船と変わらぬ大きさの巨鳥を相手に、人間がこれほど勇猛に戦えるとは考えてもみなかった。それにくらべ自分は、故郷の惨劇ばかりが思い出されて、縋りついた帆柱から指一本剥がすことができない。どれほど息巻こうとも戦う力を持たぬ自身の弱さに、バタルは唇を噛んだ。


「いやー。すごい迫力だ」


 戦場にそぐわぬ暢気な声が傍でして、バタルは驚いて振り向いた。知らぬ間に真横に立っていたジャワードは、物見遊山でもしているかのように額に手をかざして、人と巨鳥の戦いを眺めている。こんな時でさえ余裕綽々としていられる白人アフランジの神経の太さが信じがたく、バタルは敬意さえ覚えた。


 傷を負ったロック鳥が、住処の方角へ頭を向けた。途端に、船首がぐんっと沈んだ。ロック鳥に突き立った銛から伸びる綱が、一番太い帆柱に結びつけられていた。


「帆の綱を切れ!」


 ガザンファルの檄に、銛の綱ではないのかとバタルは驚いた。振り下ろされる斧と、綱の切れる音が方々で鳴る。丸く膨らんでいた帆は繋ぎ止めるものが失せた途端、風に押されるまま後ろへと流れてはためき出す。巨鳥に引っ張られるまま、飛ぶのと同じ速度で船が走り始めた。

 船ではありえぬ勢いとそれに伴う揺れで、甲板の幾人かがひっくり返った。慌ててあちこちにつかまる船員たちの中で、ガザンファルは仁王立ちして拳を突き出した。


「おっしゃあ! このまま島まで連れて行きやがれ!」


 ガザンファルが嬉々として叫び、ジャワードが帆柱で体を支えながら声をあげて大笑いをした。


「これはすごい! やるな、あの船長」

「無茶苦茶だ!」


 なぜ彼らはこんなにも楽しそうにしていられるのかと思いながら、バタルはターバンを押さえて自身が海へ放り出されないようにするだけで精一杯だった。


 あまりの加速に、わずかな波頭を乗り越えるだけで船体が跳ね上がり、あちこちで悲鳴があがった。跳ねたところから着水するたびに、船全体がきしむ音をたてて海水を被り、果たして島まで耐えきれるのかと不安になる。


 大気に霞んでいた島の影が、あっという間に近づいた。険しい岩壁の上にこんもりと緑の木々を茂らせているのが、遠目にも確認できる。ほどなく島に着くと思われたその時、船を引っ張っていたロック鳥が一声鳴いた。島から、鳥影が飛び出した。


「次、来やがったぞ!」

「船長、さすがに無理だ!」


 ガザンファルの声に、船員が叫び返す。立ち上がるのも困難な状況で、二羽目のロック鳥に太刀打ちできるはずがない。船の速度が落ちることはなく、現れた二羽目は一度の羽ばたきだけで頭上をすれ違った。瞬間的に風の圧が高まり、船上の空気がごうと鳴った。


 その衝撃の合間を縫って、船上をさらなる絶望へと叩き落とす叫びを誰かがあげた。


「右舷前方! 食人鬼グールの船だ!」

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