7 上陸
砂の上に降りた途端、バタルはがくりと膝をついた。四つ這いになってどうにか倒れ伏すまではいかなかったが、萎えた足の力はしばらく戻りそうもない。ずっと帆柱にしがみついていた手指もすっかり固まり、握る動きすらもままならなかった。それでも手足に大地を感じ、しっかりと思考ができている。
「……生きてる」
しみじみと呟き、バタルは感じ入って今にも泣きそうだった。
船は、間一髪のところでジャワードが引き綱を切り、岩壁の前の砂浜に乗り上げて止まった。あと一瞬でも綱を切るのが遅ければ、岩壁に正面から叩きつけられて、乗組員もろとも木っ端みじんになっていたことだろう。
当のジャワードはといえば、海水のかからない岩場に絨毯を敷いて、相変わらずの暢気さでゆったりと
四つ這いで首を垂れたまま動けずにいるバタルの様子を、ゼーナは身を低くして窺った。
「
不安げな魔人の声に、バタルはようよう顔を上げた。眉尻を下げて覗き込んでくるゼーナに、力なく笑ってみせる。
「ああ、どうにか……」
疲労を吐き出すように何度も深呼吸をして息を整え、バタルはようやく腕に力を入れて体を起こした。まだ足がふらつくが、歩けなくはない。
バタルは時折ゼーナの腕を借りながら苦労して砂浜を移動し、寝そべるガザンファルのかたわらでどさりと腰を下ろした。
「船、壊させちゃったな。ごめん」
無茶をさせた罪悪感からバタルが吐き出せば、ガザンファルは寝転がったままふっと笑った。
「なに。引き受けたのはおれだ。契約通り、ロック鳥の島には連れてきた。財宝はもうおれのもんだ。船は直すでも新しく買うでも、なんとでもならぁ。ま、とりあえず港に戻るための修理はいるが、片道もたせるだけならなんとかなるだろ」
さて、と勢いをつけて、ガザンファルは起き上がった。緊張し続けた筋肉をほぐすように上体をひねり、立ち上がって手足を回す。体に問題がないことをが分かって満足すると、ガザンファルは近くで伸びているターバン姿の船員をつま先でつついた。
「おら、いつまでも寝てると鳥に食われっぞ」
船員は砂浜に突っ伏したまま、恨めしげに低く唸った。
「船長……こんなのもう二度とごめんですよ。命がいくつあっても足りやしない」
船員からの苦情に、ガザンファルはオレンジ色の頭を掻いて苦笑した。
「そう言うなって。なにはともあれ生きてたんだ。あとはいくらでも遊んで暮らせばいい」
「港に帰れれば、ですけど」
「おうよ。そのためにさっさと起きろ」
一帯に散らばって寝転がる全員に聞こえるように、ガザンファルは強く手を叩いた。
「ここにいる人数を数えて、動ける奴は船の状態を確認しろ。怪我人はとりあえず、水に浸からないところに集まっとけ。歩けねぇ奴には肩貸してやれ。今回の仕事は終わりだ。サージビアに帰ったら、財宝がおれたちを待ってるぜ」
ガザンファルの声で、船員たちはゆるゆると動き出した。やはり疲労が深く、出航時のような覇気はない。けれど、互いに声をかけ合い、生き延びたことを喜び合う姿にはある種の誇りのようなものが見えた。
文化も思想も違う地で生まれたろう彼らが、こうしてガザンファルを中心として集まり同じ船に乗っているからには、バタルの知り得ない事情がそれぞれあるのだろう。
そんな彼らだから、船長のごり押しとはいえ無茶を聞いてくれたに違いない。彼らがいなければ、バタルはこの孤島が見える場所まで来ることさえできなかっただろう。
「ガザンファル」
立ち上がって呼びかければ、船員たちに指示を飛ばしていたガザンファル船長が振り返った。傷のある彼の顔も、今となってはそれほど凶悪には見えなかった。改めて見ると、始めに受けた印象よりもずっと年若い人物かもしれない。
「ありがとう」
まだ言えていなかった感謝をバタルが伝えると、ガザンファルは破顔した。
「家族を探しに来たんだろ。早く行ってやれ」
バタルは頷き、周りで立ち働いたり傷の手当てを受けたりしている船員たちを見回した。
「みんなもありがとう」
船員たちは揃って気のいい笑顔を返し、送り出すように大きく手を振った。バタルが頼まなければ船は壊れず、傷つくこともなかったというのに、誰も恨み言を叫ぶことはなかった。
もう一度だけ胸の内で彼らに礼を言いながら、バタルはずっと傍にいたゼーナに向き直った。
「行こう」
「はい」
「ジャワードも――」
「ぼくはもう少しここにいるよ」
バタルの声かけに、
「別にぼくは君の仲間ではないから、どうしようと構わないだろう」
「まあ、そうだけど」
これまでなにも言わずともついてきていただけに、バタルはジャワードの考えが分からず戸惑った。そんな困惑を察したかは不明だが、ジャワードはバタルの方を一切見ることなく絨毯に腰を据えたまま、助け合って船の修理にとりかかる海賊たちを眺めていた。
「彼らが島を出るには、今日明日じゃあ無理だろう」
それまで見守るつもりなのだ、と。ジャワードは言葉にはしなかったが、バタルはそのように受けとった。
(本当に、分からない奴だな)
ジャワードなりに、海賊たちを気に入っているということなのだろう。今いるのがロック鳥の棲む島である以上、この場所も安全ではあるまい。海賊たちのことを考えるならば、ジャワードが傍にいた方が多少は心強く思われた。
「分かった。それじゃあ、あとは頼んだ」
「行ってらっしゃい。また生きてたら会おう」
ここまでずっと一緒に旅してきたジャワードにも見送られ、バタルは一抹の心細さを抱きながら、島の中心を目指して足を踏み出した。その後ろに、指輪の魔人ゼーナは従順に続いた。
✡
遠ざかる足音を背中に聞きながら、ジャワードは甘い煙をゆっくりと吐き出した。
(これでいい)
これまでにもバタルは幾度となく命にかかわる危機に瀕しながら、強運によって生き延びてきた。ジャワードと出会ったのも、その運の内だ。指輪の魔人も一緒なのだから、今回も彼は生きて帰ってくるはずだ。そう確信が持てるからこそ、ジャワードはここに残った。
行かない、とジャワードが言った時の、戸惑ったバタル様子を思い返して思わずふと破顔した。ずいぶんと意地悪もしてきたつもりだが、多少へそを曲げることはあってもジャワードを突き放そうとしないどころか、気にかけるあたり、本当にお人好しだ。道具に過ぎない魔人に対してもそうなのだから、性根が義理堅いのだろう。
(一度死んでるからかな)
それが、ジャワードがバタルに興味を引かれる大きな要因の一つでもあった。バタルは臨死体験などという生やさしいものでなく、本物の死を経験している。それが彼の人格に多少なりとも影響を及ぼしていても、おかしくはない。
死は、ジャワードにとってあまりにも縁が遠い。だからこそ、心惹かれた。もちろん他者の死は過去にいくらでも見てきたが、彼らは自身の死の体験を語ることはできない。しかし、おそらくこの世で唯一、バタルはそれを語れる。これほどジャワードを魅了する事柄が、他にあろうはずがなかった。
オレンジ色の頭の船長が、ジャワードがこの場に残っているのに気づいて歩み寄ってきた。
「兄ちゃん、一緒に行かなかったのか」
ガザンファル船長は、岩場に敷いた絨毯に座るジャワードの前に立ち、不遜に見下ろしてくる。ジャワードは
「まあね。別に仲間ってわけじゃないし」
「仲間じゃないって言い切れるような相手と、こんな危ない旅なんざしねぇだろ普通」
「普通って、なんなんだろうね」
やや強く言いながら、ジャワードは絨毯の表面を軽く撫でた。見るからに年代を経て色褪せた絨毯は、しかしどれほど酷使してもすり切れることなく、新品と変わらぬ強度を保ち続ける。ジャワードとしては時に厭わしく感ぜられるものでもあったが、いい絨毯だ、とぼろぼろの若者が褒めてくれた夜を思い出すと、自然と頬が緩んだ。
決して朽ちぬ絨毯が朽ちる瞬間を、自身の目で見ることはできるのだろうかと、ジャワードは思いを巡らせた。
「君は、自分が普通だと思うかい?」
「そりゃ……」
不意の問いかけにガザンファルは言いよどみ、結局口をつぐんだ。彼の戸惑いが手にとるように分かり、ジャワードはやや興ざめした。ガザンファルは世間からあぶれたからこそ、ならず者に身をやつしているはずだ。大胆な行動力のある面白い人物と評価はできるが、はみ出し者の自覚がありながら、普通などという価値観を持ち出したあたり底が知れてしまった。
ガザンファルは困惑の末に続きを言おうとしたが、声を発する前にジャワードが目線だけで制した。冷めた嘲笑を口元に貼りつけた
「どう足掻いたって、普通になんかなれないんだよ、ぼくらは」
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