2 弱点

 バタルの言葉を、ズラーラは肯定しなかったが、否定もしなかった。それで確信を強めながらも、まだ信じられない思いの方がバタルの中で強かった。そういえば、マシュリカ国の君主スルターンがすげ変わったことは聞き知っていても、それがどのように行われたかまでは知らない。


 君主スルターンが本当に魔人だったとして、それが魔人自身の意思によるものなのか、誰かの願いなのかで、かなり話が違ってくることは確かだった。


「魔人が君主スルターンに……そんなこと、本当にありえるのか」

「可能か不可能かで言えば、まあ可能だろう。野心を持つ魔人も、いないとは言えない」

「だとしても、食人鬼グールを従えてるのはなぜなんだ。魔人は、人のために作られた存在だろう」

「目的はおれにも分からない。でも、集められた人間の内、若い女はみんな地下に閉じ込められて、それ以外はみんなその場でグールに食われてる。一度は地下牢に入れられた女たちも、その後は毎日一人ずつ殺されてるみたいだ」


 少年魔人の口から淡々と告げられる事実に、バタルの口調と表情は自然と厳しさを増した。


「それはおかしい。魔人は殺しを禁じられてるはずだ」

「魔王は毎日、捕らえた女の中から適当な一人と話をしてるだけだ。その後に女は食人鬼グールに食われてる」


 ズラーラはやや被せ気味に素早く返す。あまりに気分の悪くなる話ばかりで、バタルは口の中に苦さが広るようで閉口した。


「直接手を下すんでなければいいってことか。案外基準は緩いんだな」

「なんでも抜け道はある。主人シディバタルだって、身をもって知ってるはずだ」


 ズラーラの言う通りだ。抜け道があったから、一度は死を経験したバタルがここにいる。

 けれどいくら考えても、魔王アラディーンがなぜそんなことを繰り返しているのか、やはりまるで想像がつかなかった。女だけを選り分けている理由も分からなければ、わざわざ一人ずつ殺す理由も分からない。


「残虐妃、か」


 不意に、ジャワードがぽつりと言った。それが妙に冷めた響きを帯びていた気がして、バタルは斜め後ろに立つ白人アフランジの魔法使いを振り返った。


「残虐妃って、マシュリカに本当にいたって言う」


 ジャワードは、水煙草シーシャを吸おうとでもする素振りで口元を撫でて頷いた。


食人鬼グールを使ってる分、やり方はかなり雑だけど、同じことをしてるんじゃないかな。攫うのを女に限っていないのは、食人鬼グールを養うためだろう」

「残虐妃が殺してたのは、後宮ハリームの他の妃だったはずだ」

後宮ハリームだけじゃなかったんだよ」


 そう言ったジャワードの声は、突き放すような鋭さがあった。つい先ほどまでの飄々とした楽しげな彼とは打って変わり、瞳の青は氷の冷たさをたたえている。白皙の美貌がその眼差しの冷淡さを際立たせるようで、バタルはぞっとした。


「ジャワード。なにを知ってるんだ」


 白人アフランジの魔法使いは、物思いにふけるようにわずかに目を伏せた。そうしてゆっくりと瞬きし、次に目を上げた時には、元の温かみある瞳の空色が戻っていた。


「残虐妃ラフィーアは、君主スルターンの気を引く可能性のある女すべてが邪魔だったんだよ。だから宮殿の外であっても、美しいと評判の娘がいれば自分の前へ連れて来させて殺していた。最後には自分より若い女、美しい女のすべてを憎み、そして殺した女たちに関わる者すべてに憎まれて死んだ」


 言い終わると同時に、ジャワードはふと口の端に苦笑を乗せた。


「まるで、亡霊だ」


 短く呟いて、ジャワードはバタルに背中を向けた。


「どこへ行くんだ」


 そのまま歩き出した背中をバタルは呼び止めたが、ジャワードは足を止めずに緩く手を振って答えた。


「ここは少し空気が悪い。向こうにいるから、なにかあれば呼んでくれ」


 足もとに広げられたままだった絨毯がわずかに浮き上がり、持ち主のあとを追うように飛んでいく。ジャワードは谷底の影の中を歩み去り、迫り出す岩壁の向こうへと姿を消した。


「どうなさったんでしょうか」

「さあ。おれにも分からない」


 気づかわしげなゼーナに、バタルはそれ以外答えようがなかった。


 ジャワードとのつき合いは決して長いとは言えないが、らしくないという印象がバタルの中で強く湧き上がった。そういえば、魔王の名が出た時点から、すでに少しばかり様子がおかしかったようにも思う。彼は自身のことを語らないので推測しかできないが、マシュリカ国に滞在していたことがあるのかもしれない。


 ジャワードの去った方向をなんとなくすっきりしない心地でバタルが見詰めていると、ウマイマが肩を叩いた。


「ジャワードちゃんのことが気になるのも分かるけど、今は妹ちゃんのことが先でしょう」

「そうだそうだ。あんな偉そうな奴いなくたって、オレ様がいればなにも問題はないぞ」


 ウマイマとコッコに促され、バタルはまだ後ろ髪引かれる思いがありつつも魔人たちに向き直った。


「ズラーラの話の通りなら、あまり時間的な猶予はなさそうだな」

「女たちが魔王の前に連れ出される順番は特に決まっているわけじゃない。急いだ方がいい」


 短剣の少年魔人の言葉にバタルは頷きながら、顎に手を当てて考え込んだ。


「問題は、ファナンをどうやって牢から助け出すかと、助けたあとだ。食人鬼グールが人を攫い続ける限り、同じことを繰り返しかねない。率いてる魔王をどうにかできるといいんだが――」

「あらかじめ言っておくけど」


 バタルの思案に割り込むように、ズラーラが強めに声を出した。


「魔人に魔人は倒せない。まったく不可能とは言わないが、おすすめしない。さっきも言った通り、魔人は他の魔人の魔法に干渉できない。そして魔人自身もまた、スライマンの魔法だ。なにが起きるか分からない。うまく倒せたとしても、勝った方まで消滅に巻き込まれて消えることも十分にありえる」


 釘を刺すように言われ、バタルは仕方なく、魔人への願いによるもっとも手っとり早いだろう解決を選択肢からはずした。それでも、ここには三人もの魔人がいるのだ。必ず方法があると、バタルは諦めずに必死で思考を巡らせた。


「魔人は不死身だって言ってたよな。それって、本当になにも倒す方法がないのか」


 問いかけに、ズラーラが急に口を閉ざした。助けを求めるように、他二人の魔人へと目配せをする。ウマイマが小さく肩をすくめる一方で、ゼーナが一歩進み出た。


「魔人が依代よりしろとしている道具に刻まれている文字を完全に潰すか、削りとってしまえば魔法が解けて魔人も消えます。契約方法を示す文字自体が魔法になっているんです」


 そう言ったゼーナの上衣ペロンの裾を、ズラーラが軽く引っ張った。


「おい、そんな簡単に」


 ゼーナは顔だけで振り向き、不安げな少年魔人を見下ろした。


「バタル様なら大丈夫です。ズラーラ様もそう思ったから、迷われたのでしょう」

「それは……」


 ズラーラは否定しなかったが、それでもやや不服げに唇を尖らせた。


「なにか、問題なのか」


 魔人たちの反応が解せずバタルが問えば、ゼーナが顔を戻して首を横に振った。


「いいえ。ただ、わたくしたち魔人の気持ちとして、抵抗があるというだけなんです。魔人はただでさえあらゆる面で主人シディに逆らえない存在ですから。その上さらに弱点を明かすのはそれなりの覚悟が必要で」


 訥々とゼーナは語ったが、最後には真っ直ぐにバタルの灰色の瞳を見てほほ笑んだ。


「バタル様なら大丈夫だと思ったから明かしました。バタル様ならそれでわたくしたちをどうにかしようとは、考えないでしょうから」


 ゼーナの言葉にズラーラとウマイマも頷くのを見て、バタルは胸をかれて右手の指輪に目を落とした。魔人の倒し方に関して深く考えずに聞いてしまったが、主人シディがそれを知るということは、そのまま彼らの命を握ることになるのだ。そうなれば魔人の立場が極端に弱くなる以上、彼らが躊躇うのも無理からぬことだった。


「弱点を明かしたってことは、それだけ信頼してるってことよ。これって、実は結構すごいことなんだから」


 晴れやかに言って、ウマイマは片目をつむってみせた。


「オレ様の鏡も忘れていくなよ。なくしたら承知しないからな」


 突然にコッコまでが話題に入ってきて、ウマイマは苦笑する。


「そうね。ちゃんと大事にして貰わないとね」


 ウマイマは大きな体を丸めて、足もとに置かれたままの鳥籠の中から鏡を拾い上げた。そのままその鏡を差し出され、バタルはつられるように苦笑いして受けとった。返せとわめいていたのはコッコだろうに、普段は他人に持たせておこうと考えているならずいぶんと狡猾な鸚鵡だ。鏡を短剣と一緒に革帯へ挟み込んで顔を上げたバタルは、魔人たちの信服の眼差しに応えて頷いた。


「ズラーラ」


 名前を呼ぶと、短剣の少年魔人が進み出て主人シディを見上げた。バタルは告げるべき言葉を胸の内で反芻しながら、狼に似た琥珀の瞳を見詰め返した。


「君に、二つ目の願いごとをしたい」

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