6 魔法

 目の前にひれ伏すジャワードの姿を、バタルはどういう表情をしたらいいか分からないまま見詰めた。


 バタルの知っているジャワードは、誰にも仕えず従わず、他者の思い通りになるのを極端に嫌う人物として映っていた。そんな彼が跪き、自分を主人シディと呼ぶ。あまりに不似合いなその行動が、彼が人間でなく魔人であることを知らしめていた。


 これまで隠し続けていた正体を明かすことに、ジャワードの中でもなにがしかの葛藤があったはずだ。その決意には誠実に応えるべきだろうと、バタルは姿勢を正した。


「ジャワード。君に願う。魔王アラディーンのことが知りたい」


 額ずいてバタルの言葉を待っていたジャワードが顔を上げた。彼は、どこか恍惚とした笑みでバタルを見詰め返した。その碧眼の奥に、揺らめく光が見えた気がした。


「承ったよ。主人シディバタル」


 ジャワードに主人シディと呼ばれるのは、他の魔人に呼ばれるよりもずっと強い違和感と背中のむずがゆさを覚えた。やはりこの奔放な白人アフランジに、下僕しもべの振る舞いは似合わない。そんなバタルの内心を知るはずもなくジャワードは立ち上がり、改めて絨毯へと腰を下ろした。そして再び、バタルを自身の隣へ手招きする。


「それでは、始めようか」


 言いながら、ジャワードは隣に座るバタルの方を向いて胡座をかいた。しかしバタルの頭にはまだ懸念があった。


「大丈夫なのか。魔人は、他の魔人のことを教えちゃいけないんだろう」


 ジャワードは余裕ある表情で背筋を伸ばし、バタルの右手を握った。


「ぼくはなにも教えない。君がその目で見て、耳で聞いて、知るんだ。そこからなにを見つけるかは、君次第だよ」


 白人アフランジの魔人は握った手を引き寄せると、手の平を自分の胸へと当てさせた。そのまま空いているもう一方の手を伸ばして、バタルの目元を覆う。


「君なら必ず見つけられる――目を閉じて」


 バタルはジャワードの体温を手の平に感じながら、言われるままに目をつむった。すると、眠りに落ちる時のように急速に意識が遠のいた。目が回ったように頭の中心がぼんやりとし、視界のみならず意識までが闇に落ちていく。崩れるように倒れたバタルの体を、ジャワードが柔らかく抱きとめた。


「行ってらっしゃい」


 沈む意識の中で、ジャワードの声だけが静かにこだました。



 ✡



 闇の底でバタルが最初に感じたのは、香りだった。水煙草シーシャの甘い香りとは違う。もっと濃く、甘さと共に清涼感とわずかな辛みが混じる複雑さで、鼻腔全体にまったりとまとわりつく――乳香の香りだ。寄せては返す波に揺蕩うように、濃厚な香りに意識が押し流されていく。香炉の中で樹脂のじわじわと溶ける音までもが、潮騒のように聞こえてくるようだ。


 自分はどこまで流されていくのだろうと、バタルが小さな不安を抱いた時だった。硝子が割れる甲高い音が耳をつんざいた。同時に、舞台の幕が開いたかのように闇が消える。突然の明るさに目がくらみそうになっていると、今度は女の叫びが鼓膜を打った。


「どうしてできないのよ!」


 また、ものが割れる音がした。女が手近にあった杯を投げたのだ。異国のものだろう瑠璃色の杯は粉々に砕け、女の前に立つ黒髪の男に破片と中の液体が降り注いだ。


 バタルが流れ着いたのは、見知らぬ部屋だった。滑らかな白大理石の壁に囲まれた、バタルが思いつく限り最上級の贅沢な調度で整えられた部屋だ。毛足の長い草花文様の絨毯の敷かれた床には鮮やかな色彩のクッションが無数に積み上げられ、壁際の箪笥や鏡台には細密な金装飾が輝いている。幾何学的な花文様の格子をはめ込まれた窓の向こうでは、星が瞬いていた。けれど、植物を模したランプが壁にずらりと並べられた室内は、昼間のように煌々としていた。


 各所に光が散りばめられた絢爛豪華な部屋の中で、バタルはクッションがひときわ厚く重ねられた寝台の上に、頬杖をついて寝転がっていた。それでここが誰かの寝室であることが分かった。寝台から見える部屋の中央で、男女は言い争っていた。


 女は首や額、手足にいたるまで無数の金と宝石を連ねており、いかにも裕福で身分の高い様子が窺えた。華やかな薄紅色の衣とヴェールにも金糸で縁どりがされ、いずれかの令嬢であろうかと思わされる。しかし幾重もの金が飾られた喉元には、隠しきれぬ若さの陰りが現れていた。


 一方、彼女に罵倒を浴びせられている男は、髪だけでなく服までがの飾り気のない黒を身に着けていた。サテンの長衣ディスダーシャだけでなく、革帯や薄絹の外衣アバまですべてが黒だ。地味な装いではあるが、普通より一つ抜けた背丈があるので貧相な印象はない。黒服に映える砂色の頬は老いを知らぬ若さを示し、揺らめく炎を思わせるくれないの瞳が無彩色の中に唯一の彩りを添えていた。


 女が髪を振り乱し、再び金切り声をあげた。


「なんでも叶えるって言ったじゃない! なんでできないの! どうしてわたくしの言うことが聞けないのよ!」

「確かに、ご主人様シディの願いを叶えるのがわたしの役目です。ですが――」

「なら、早く叶えなさいよ! それができなきゃ、なんの価値もないんだから! このガラクタ! ごみ! 割れた杯の方がずっと使い道があるわ!」


 このやりとりで、二人が主従関係にあることが知れた。黒髪の青年の方がなにかを訴えようとしているが、主人シディたる女は感情的に暴れるばかりでまるで聞く耳を持っていない。女はひたすら、触れたものを手当たり次第に青年に投げつけ、罵倒の言葉を浴びせ続ける。


 絶え間ない罵りに耐える青年の姿があまりにも痛ましく、バタルはやめさせねばと思った。杯や花瓶だけでは飽き足らず、金の燭台や底の厚いの水差しまで投げつけられていて、このままでは彼が怪我をしてしまう。


 咄嗟に寝台から起き上がろうとして、バタルは自分の体がまったく動かないことに気づいた。厚いクッションに頬杖をついて横になった体勢から、指一本すらも自由に動かせない。せめて声をかけられればと思ったが、唇も喉も、バタルの意思に従わなかった。


(どうなってるんだ……)


 痺れたり、硬直しているという感覚はなかった。にもかかわらず、ただ彼らの一方的な争いを見ていることしかできないのだ。自分の身になにが起きているのか分からず、バタルは焦るよりも困惑した。


 止める者のいない女の怒りは、さらに苛烈さを増していく。


「あなたはなんの為にここにいるのよ!」

「わたしは……ご主人様シディの願いを叶える為に存在しています」

「そうやって言うなら、陛下をそそのかすあの女を殺しなさい! 早く! 今すぐに!」

「ですから、殺生は禁じられて――」

「それなら陛下がわたくしだけを愛するようにしなさい!」

「申しわけありません。人の心を操作することも禁に触れ――」

「一体なにならできるのよ!」


 女が、真鍮の香炉を両手で持ち上げて投げた。空中で香りの軌跡を描いて蓋がはずれ、飛び出した灰が青年の姿を覆い隠す。香炉は金属が変形する耳障りな音をさせて床を転がり、中で焚かれていた香炭と乳香の樹脂も絨毯の上に落ちた。煙るように舞い上がっていた灰が落ち着くと、黒いはずの青年の髪も衣服もすっかり白くなっていた。


 突然、バタルは立ち上がった。バタルの意思ではなく、体が勝手に動き出したのだ。なにごとかと驚いている間に、足は争う男女の方へと向かっていく。混乱をしながらも、バタルはやっと彼らの仲裁をできるだろうかと思った。けれど体は彼らの数歩手前で足を止めてしまった。どうしたのかと思う間もなく、その場に膝をついて身を屈める。そこには香炉から飛び出した香炭が赤くくすぶっており、毛足の長い絨毯を焦がしていた。


 今にも炎をあげそうな香炭へと手を伸ばした。その手の甲は、見慣れた自身の肌色よりもずっと白かった。前屈みになった視界に垂れてきた髪は、黄金色をしていた。


 到底、自分のものではありえないその色に、バタルは朧気ながら自身の置かれている状況が見えた気がした。


(これじゃあ、まるで――)


 伸ばしたその手を、絨毯を焼く香炭の上にのせた。香炭は赤々と燃焼し続けていたが、素肌の手の平に不思議と熱さは感じない。そのまま軽く押さえるようにして手の平を滑らせれば、煙と共に香炭が消え、絨毯の焦げ目もすっかり元通りになった。


 そうして火の始末がされている間にも、男女の言い争いは続いていた。


「あなたがぐずぐずしてるから、陛下はまたあの女のところに行ってしまったのよ! 役立たず! なにが願いの叶うランプよ! 陛下にいただいた金剛石ダイヤまで売ったのに、なんにもできないじゃない! こんなことなら、ただの骨董品を買った方がずっとましだった!」

主人シディラフィーア……」


 灰まみれの青年が、ついに返す言葉を失って項垂れた。


(ラフィーア……どこかで聞いたような)


 一体どこだったろうかとバタルは考え込んだが、答えはすぐに明らかになった。自らの口が、その名を紡いだからだ。


「ラフィーア、それくらいにしてあげたら」


 立ち上がりながら発せられた声は、バタルのものではなく、よく知る白人アフランジのものだった。


(――残虐妃ラフィーア)


 そうだ。そう、確かに、共に旅した白人アフランジが言っていたことがある。

 呼びかけに振り向いたラフィーア妃は、憤怒の表情を一変して悲愴なものに変えた。


「ジャワード」


 そう呼び返され、不確かだったバタルの状況把握は一気に間違いないものとなった――これは、ジャワードの記憶だ。

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