7 追憶
今、見聞きして、肌で感じているのがジャワードの記憶であるならば、すべてが腑に落ちた。思い通りに体が動かせないのは、ジャワードが一度経験したものを、バタルが五感を通してなぞっているに過ぎないからだ。すでに過ぎ去ったできごとなのだから、そこにバタルの意思など介入しようもない。
(目と耳で知れっていうのは、そういうことか)
ジャワードの記憶の中から自力で見つけて来いと。それならそうはっきり言えば早いのに、それをしないところが彼らしく、憎らしかった。
ラフィーア妃が駆け寄ってきた。両腕を伸ばし、縋りつくようにジャワードの首へと腕を回す。
「だってジャワード、陛下がまたあの女のところに行ってしまったんだもの。わたくしはこんなにも、寂しく待ち続けているのに。正妃のわたくしを置いて別の女のところに行くなんて、ひどすぎるでしょう」
哀れっぽく言いながらラフィーア妃は、首に回した腕に体重をかけてジャワードの顔を引き寄せた。
「こんなにひどい仕打ち、わたくし我慢できない。だから、わたくしが怒るのは仕方ないことなのよ」
鼻先が触れ合う距離で、ラフィーア妃は憐憫を誘うように囁く。妃の瞳に映る自分の影を眺めながら、ジャワードは小さく息を吐いた。
「そうだね。かわいそうな人だ」
喉から出たジャワードの声の平板さに、バタルは驚いた。彼の冷えた声を聞くのは、これで二度目だ。一度目に聞いたのも確か、残虐妃の話をしている時だった。
しかしラフィーア妃は気づかないのか、赤く塗られた唇がうっすらと笑みを描く。
「ジャワードだけよ。わたくしがどんなに不幸か分かってくれるのは」
さらに顔が近くなり、唇が重なった。口腔に侵入するものの感触に、バタルは慌てて体を引き離そうとしたが、できないことを即座に思い出した。体の持ち主であるジャワードはラフィーア妃を拒絶しなかった。かと言って、積極的に受け入れているようにも感じられない。ちょうど、奔放にじゃれついてくる小動物を、振り払うでなく自由にさせているのに似ている。
口づけに満足したラフィーア妃は、さらに体を密着させて耳元へと唇を寄せた。
「陛下が他の女のところにさえ行かなければ、わたくしはこんなに寂しくならないのよ。ジャワードなら、分かるわよね」
鼓膜へと直接吹き込まれた声は、悲哀よりも、艶めいた色合いが強かった。
首から解かれたラフィーア妃の腕が、改めて背中へと回された。服の上から骨格の形を確かめるかのように、女の手がゆっくりと背中の凹凸を這っていく。這い下りた手の平が腰のあたりを撫で始め、バタルの背筋に悪寒が走った。
「わたくしは寂しいの。あんまりにも寂しくて寂しくて、我慢ができないの」
ジャワードがため息を吐いた。その感情は、バタルにもよく理解できた。
人はこんなにも愚かになれるものなのかと、バタルは信じられない心地だった。胸の内が冷え冷えとしているのは、ジャワードと自分、どちらの感覚であるか分からない――おそらく両方だ。
夫の不義理をなじるその口で、自らも不義理をおかしていく。相手が魔人であるから、罪の意識が余計に薄いのかもしれない。けれどラフィーア妃がジャワードを見詰めるその眼差しは、美しき
俯いていたジャワードが、目線を上げた。そこでは、灰まみれの青年が呆然と立ち尽くして、こちらを見ていた。
「アラディーン、おいで」
ジャワードの低い呼びかけに、青年の肩が小さく跳ねた。
(アラディーン……この男が)
魔王と仰々しく呼ばれるにしては、大人しそうな印象だ。
ジャワードに抱きついていたラフィーア妃が、少しだけ腕を緩めてアラディーンを一瞥した。
「アラディーンもなの?」
あざとい上目遣いでラフィーア妃が問うた。自身の年齢を分かっていない仕草だったが、ジャワードはようやく腕を伸ばして彼女の腰を抱いた。
「ぼく一人では疲れてしまうからね」
疲れるのは体ではなく心の方なのだろうと、バタルにはすぐに分かった。今のジャワードの声も、バタルが聞き慣れているものよりずっと力がない。
しかしラフィーア妃がそんなことを察することはなく、冗談と受けとって笑い声をたてた。
「まあ。嘘ばっかり」
「魔人は嘘をつかないよ」
ジャワードは事実として言ったが、ラフィーア妃に正しく伝わったとは思えない。
「いいわ。灰を綺麗に落としたらね」
ラフィーア妃の決定と指示に、アラディーンの顔が困惑に歪む。この時初めて、ジャワードは淡い笑みを浮かべた。
「
「しかし――」
「真面目なのは美徳だけれど、君はもう少し
「…………」
ジャワードの諭すような言葉に、アラディーンは再び口を閉ざしてしまった。つかの間迷うようにアラディーンは棒立ちになっていたが、やがて小さく身を震わせた。たったそれだけの動きで、髪や衣を白くしていた灰が消え去り、元の深い黒さをとり戻した。
ラフィーア妃が、はしゃぐ少女のようにジャワードの手を引いた。その先には、クッションの厚く敷き詰められた寝台がある。華やかな二人の後ろに、アラディーンが黒い影のように続いた。
(……最悪だ)
バタルは、できないと分かっていても逃げ出したい衝動に駆られた。女を知らぬわけではない。さりとてなにが悲しくて、他人の房事に五感を委ねなければならないのか。バタルを記憶の中へと送り込んだジャワードは、こうなることが分かってたはずだ。分かった上であえてこの方法を選んだとしたら、あまりにも――
(悪趣味が過ぎる)
戻ったらただではおくまいと、バタルは心に決めた。
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