5 前世

 バタルが、バタルとなる前の記憶に思いを馳せる時、故郷ではいつも絵筆を走らせていた。自宅の屋上の絵は、今どうなっているだろうか。あれほど毎日描き進めていたというのに、ジャヌブの町を出てから絵のことをすっかり考えなくなっていた。妹をとり戻すことと、生き延びることに必死過ぎたのだ。それでも記憶の中の景色に意識を向けるだけで、手が自然とそれを描き出そうとするのだから、習慣はそう簡単に抜けないものだと分かる。自分の正体を求めて描き続けてきたものを再現するように、バタルは地面に積もった砂の上に小石を滑らせた。


「前のおれは、何者でもなかった。これといった夢も目標も持ってないくせに、田舎はつまらないと思って家を出て都心に住んでたんだ。上京さえすれば、なにかになれる気がしたんだろうな。でも、具体的な目的がないまま移り住んだだけだったから、結局何者にもなれずじまい。高いだけの家賃を払う為にバイトをいくつもかけ持ちして、趣味らしい趣味も持たず、たまの休みは家で寝るだけ。大した責任もないから気楽と言えば気楽だったけど、これでいいのかとは、ずっと思ってた」


 手を動かすほどに記憶は鮮やかな色を帯び、バタルは意識せずとも自分のこととして語ることができた。当時の空虚な感情までもが、温度を持って呼び起こされる。


「結局おれはなにも行動を起こさないまま、自堕落な暮らしをやめられずにずるずると続けて、ある日街を歩いてたら崩れてきた建設現場の足場の下敷きになって死んだ。本当に、つまらない人生だ」


 じっと耳を傾けていたジャワードは、バタルが話を閉じると同時に息を吐いて目線を向けてきた。


「それで、そんな人間から今のバタルに生まれ変わった感想は?」


 予期していなかった質問に、絵を描く手が止まった。


 これと言った刺激もなく目的もなく、ただ楽に生きていたかつての日々。その暮らしも実のところ嫌いだったとは言い切れない。けれどそこに多少の郷愁はあっても、未練は感じられなかった。以前の自分に戻る機会が与えられたとしても、バタルはバタルで居続けることを選ぶだろう。


「生きてる期間は前も今も大して違わないはずなんだけど、今の方がずっと、生きている感じがする」


 生まれ変わる前とあとで、おそらく自分の性格そのものは大して変わってはいない。織物職人の長男として流されるように家業を継いでいなければ、前と同じように目的もなく自堕落にその日暮らしをしていただろう確信がある。大きな差違があるとすれば、自分の死の記憶だ。それがあったからバタルは、自分が何者であるかを外界でなく、身の内に探し求めた。なにより、守るべきものがバタルにはあった。守らなければと思う存在がもたらす行動の変化は、あまりに大きかった。


 バタルが思考の赴くまま地面に石を走らせていると、ジャワードが肩を寄せて手元を覗き込んできた。へえ、と感心したように耳元で囁かれる。


「うまいな。エッフェル塔か」


 ジャワードの評価に、バタルは噴き出すように笑いを漏らした。軽く背中を伸ばして、灰色の砂の上に無数の線を交差させて描いた尖塔を、俯瞰して眺めてみる。


「確かに、色がないとそう見えるな。でも、これは東京タワー……」


 そこまで言って、バタルは息をのんだ。言葉を失うバタルに気づかないかのように、ジャワードはごく自然な様子で言葉を紡いでいく。


「ああ、そういえば東京にも似たものができたんだったね。最後に見たのはもうかなり前のことだし、日本の方には行ったことがなかったからすっかり忘れてた」


 心臓の音がやかましかった。あり得ない、という思いが真っ先に浮かぶと同時に、これまでに見てきたジャワードの姿が脳裏で無数に再生される。


 バタルは、ゆっくりと振り向いた。夜闇の中でなお澄んだ空色の瞳が、間近でこちらを見詰めていた。


「ジャワード……なんで……」

「なんで、とは?」


 ジャワードの声音は常と変わらない。一方でバタルの声は、動揺をおさえきれず震えた。


「なんで知ってるんだ。おれが前にいた世界のこと、なんで……」

「もちろん、行ったことがあるからさ」


 空色の瞳は揺るがない。それでもまだ、バタルは信じられなかった。


「……何者なんだ」

「それが分からないほど、君は馬鹿じゃないと思っていたけど」


 世界と世界の間を渡れる存在は限られている。バタルはついに、顔を覆って身を丸めた。


「魔法使いだって言ったじゃないか」

「ぼくは一度も、そんな自己紹介をしたことはないよ」


 確かにその通りだ。最初に出会った時、ジャワードを魔法使いだと断じたのはバタルだ。彼はそれに対し否定はしなかったが、はっきりそうだとも答えなかった。


 なぜ気づけなかったのか。これだけずっと一緒にいたならば、どこかで気づく機会はあったはずだ。彼は巧妙に隠していたかもしれない。それでも小さな引っかかりや心当たりは、間違いなく存在していた。


「バタル」


 耳元で呼ばれて、バタルは恐る恐る顔を上げた。触れそうなほど近くに、空色の瞳があった。もう見慣れた碧眼と思っていたが、細く筋を描く虹彩が空色の上に淡く銀を散らしたようにきらめいていて、その底知れぬ輝きに視線が釘づけられる。


「魔王の――アラディーンのことを知りたいかい」


 息がかかるほど近くで発せられた声は、水煙草シーシャの甘い香りを帯びていた。その言葉で、バタルは現状を思い出した。しかしすぐに次の言葉が出なかった。バタルの動揺を見透かすように、金の睫毛に縁どられた目蓋がゆっくり瞬きした。


「君が強く願うなら、ぼくはそれを叶えられる」


 願え、と言われた気がした。途端に、バタルの中の躊躇いは霧散した。


「……知りたい」


 バタルが答えると、空色の瞳が笑みの形に細まった。満足そうにジャワードは身を離したが、眼差しはバタルに向けられたままだ。


「それじゃあ、契約といこうか。絨毯の四隅の房を三度ずつ、その手で揺らすんだ」


 絨毯と言えば、今二人で並んで座っているこの空飛ぶ絨毯しかない。ジャワードに目線で促されるままバタルは一度立ち上がり、地面に膝をついて、絨毯の隅を飾る金の房をすくい上げるように揺らした。場所を移動し、絨毯の周りを巡るように房飾りを揺らしていく。最後に、ジャワードに一番近い角の飾りを三度揺らした。


 瞬間、美貌の白人アフランジの姿が溶け、金の煙となって絨毯に吸い込まれた。胸をかれて見入るバタルの前で、金の煙は再び噴き上がり形をなす。煙が晴れると共に現れるのは、見知った白皙の若者。彼は優雅な動きで両膝をつくと、バタルの前に深く額ずいた。


「ぼくはスライマンに作られし絨毯の魔人ジャワード。絨毯の四隅の飾りを三度ずつ揺らした人間の配下となって、三つの願いを叶えよう。主人シディバタル。願いをどうぞ」

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