4 心の距離

 間もなく完全に日が落ちようかという頃。すっかり疲労困憊なバタルのために、指輪の魔人ゼーナが夕飯の用意をしてくれた。目の前に並ぶのは、ひよこ豆のペーストホンモスや、柘榴のサラダファトゥーシュ、さらには野菜の米詰め煮マハーシ。手の込んだ温かな料理の数々に、しばらく粗食が続いていたバタルはたまらず両手をすり合わせた。魔人たちは食事をしないので、これらが本当にバタル一人の為だけに用意されたと思うと、こんなに贅沢なこともあるまい。ゼーナの心づくしに、バタルは遠慮なく舌鼓を打った。


 ジャワードのところへ行っていた鏡の魔人ウマイマは、谷底がすっかり暗くなる前に戻ってきた。けれどジャワードは、島が完全な闇に閉ざされても戻ってくる様子が一向になかった。昼間に彼が常と違った表情を見せたこともあり、気がかりに思ったバタルは、三人の魔人とコッコ――緋色の鸚鵡は日没と共に寝入っていた――をその場に残して、魔法使いの様子を見に離席した。


 夜営の明かりが届かぬ岩壁の影に、白人アフランジの魔法使いはいた。愛用の水煙草シーシャを吸うでなくかたわらに置いたまま、常に共にある絨毯に寝そべって目を伏せている。


 透き通るほどに白い彼の肌が夜闇の中で月のようにほの明るく冴えて見え、思わず息をのむ。顔が月ならば、乱れたターバンからこぼれ出る黄金の髪は天を流れる星の川だろうか。常ならば詩的な表現をする感性を持ち合わせないバタルでも、ついそのように夢想させてしまうものがジャワードの容貌にはあった。


 ふと、金の睫毛を震わせてジャワードが目を開いた。近づく気配を察して、青い瞳だけがバタルへ向けられる。バタルが声を発する前に体を起こした白人アフランジは、座れと言う代わりに自分の隣を示した。


「ジャワードでも疲れたりするんだな」


 促されるまま絨毯に胡座をかきながらバタルが気づかって言えば、ジャワードは噴き出すように息を漏らした。


「まさか。そう見えたとしたら気のせいだよ」

「機嫌が悪そうに見える」

「それもはずれ。少し考えることがあっただけさ」


 白人アフランジの魔法使いはかたわらの水煙草シーシャへと手を伸ばした。彼が先端の火皿に触れただけで炭が赤く点り、丸く膨れた瓶が煙で満たされていく。


 水煙草シーシャは本来、吸う前に皿へ煙草の葉を詰めたり、その葉を熱するための炭をおこしたりと、少々の手順が必要な嗜好品だ。ジャワードも他人の目がある時には、毎回その手間をかけている。けれどバタルのみ、あるいはいても魔人だけの時には、それらをすべて省略してしまう。そのことにバタルが気づいたのは、ロック鳥の島に渡る前、サージビアの街でのことだ。


 他人に魔法を見せたがらないジャワードが、ささやかとはいえバタルの前でこうして自然に魔法を使うのは、少なからず気を許している証と受けとれた。

 ジャワードが慣れた仕草で吸い口を咥えれば、瓶の中の水がぽこぽこと泡立った。口を開くと同時に、甘い煙がふわりと漂い出る。


「君の方はどうなんだい。短剣の坊やに稽古をつけて貰っていたようだけど。魔王を倒す見込みは立ったかい」


 煙と一緒に吐き出すように問われ、バタルは難しく唸って頬杖をついた。


「正直、まったくできる気がしない。不死身な上に疲れることもない魔人に、どう勝つって言うんだ」

「肉弾戦で勝つ必要はないだろう。魔法道具を破壊する隙さえ作ればいいんだから。坊やもそのつもりで、君に戦い方を教えてるはずだ」

「それは分かってるんだけど……」


 バタルは力ないため息で語尾をぼかした。頬杖をはずし、二度目のため息と共に項垂れる。


「その壊すべき魔法道具がなんなのかが分からない。魔人たちは他の魔人のことを話せないから教えて貰うこともできないし、手当たりしだい壊すのも運任せ過ぎて現実的じゃない。隠されてたとしても、なにを探すべきなのか分からなければ見つけようもない。見つけられなければ、こちらの負けだ」

「なるほど。それは確かに悩ましいね」


 漂う煙に溶け込ませるようにゆったりと、ジャワードは共感を示した。

 沈黙が訪れた。月と星の明かりだけが降り注ぐ青い夜闇の中、白人アフランジが吐き出す煙と甘い香りが二人の間を漂い消えていく。


 そういえばジャワードとこうして二人きりでゆっくり話すのは出会った日以来だと、バタルは気づいた。あの時はロック鳥に襲われて満身創痍だったので、実を言えば記憶が曖昧な部分が多い。さりとて彼に救われたのだという事実は、バタルの中に強く刻みつけられていた。今では友と呼べる関係になったと思っているが、それを口にするとジャワードに鼻で笑われそうで、とても言えはしない。


 ジャワードと出会うまで、本物の魔法などという贅沢品はバタルの手に届くはずのないものだった。それが今やスライマンの残した魔人にまで囲まれているのだから、人生とは分からないものである。故郷を出た事情は間違いなく悲劇だが、この旅の中での出会いはそれほど悪いものではないと、バタルは思い始めていた。


「ねえ、バタル」


 物思いの途中で不意に呼ばれて、バタルは意識を引き戻した。白人アフランジの魔法使いはバタルの返事を待つことなく囁く。


「死ぬって、どんな感じ?」

「え?」


 急な問いかけに、バタルの口を突いて出たのは戸惑いだった。質問の意図が分からずジャワードの横顔を見やれば、彼はどこか遠くを見詰めるような茫洋とした表情で水煙草シーシャをくゆらせていた。困惑しつつ正面に視線を戻したバタルは、それでも自分の中で言葉を探した。


「どんな、と言われても……なにもない。ただその瞬間に、自分が消えるだけ。おれの記憶は、それで終わってる」


 言ってはみたが、どことなくしっくりしないものをバタルは感じた。けれどそれ以上、適切な表現も浮かんでこない。どうにも言語化できない自分の語彙の乏しさがもどかしかった。


「ふうん……そんなものなのか」


 気のない声音でジャワードに返され、やはり他人に伝えられるようなものではないとバタルは思った。考えてみれば、生きているものでバタルと同じ感覚を共有できる者はいくら過去に遡ろうといないのだから、適当な言葉が存在しないのも道理だ。気づくと共に淡い寂しさのようなものが胸に忍び込み、そんな感情をごまかすようにバタルは密かに苦笑した。


 ジャワードはなおも、好奇心を失うことなく続けた。


「それじゃあ、死ぬ前のことを聞かせてよ。君が前はどんな人間で、どうやって生きて死んだのか」


 バタルは不快感こそなかったものの、白人アフランジの魔法使いの考えが理解できず、頬杖をついて横目に視線を送った。


「なんでそんなことを知りたいんだ? 多分、ジャワードが思ってるほど楽しい話じゃないぞ」

「楽しいかどうかはぼくが判断するさ。ぼくはただ、興味があるんだよ。この世で君だけが知っているものに」


 その言葉で、バタルが抱いていた疑問の一つに解が出た。


「まさか、それでずっとついてきてるのか」


 ジャワードは是とも否とも言わないまま、喉を鳴らして愉快そうに笑った。それが答えだった。


「物好きな奴」

「探究心と言って欲しいね」


 バタルの呟きに訂正を入れるジャワードの表情は、今までにも増して柔らかく楽しげだった。彼が笑顔でいることは多いが、これまで見てきた表情は綺麗なばかりで本心が見えず、心的障壁も同時に作られている印象が強かった。けれど今のジャワードには、他人を拒絶するような壁が希薄に感じられる。これが、彼の素に近い笑みなのかもしれない。


 ジャワードをより近くに感じながら、バタルは頬杖を外した。


「別に隠してるわけじゃないから構わないけど、馬鹿にしたらすぐにやめるからな」

「そこはわきまえてるさ」


 念のための釘刺しにジャワードが承知するのを聞きながら、バタルは前へと腕を伸ばした。絨毯から軽く身を乗り出し、そこに落ちている尖った小石を拾い上げる。


 自分が経験したもう一つの人生を、他人に話すのは一体いつぶりだろう。バタルのこの記憶のことを知っている人間は、家族も含め故郷にわずかながらいたが、誰もが夢だと断じて真面目にとり合いはしなかった。多感な年の頃には自身でも疑いを抱き、記憶の存在自体を厭わしく思ったりもした。この記憶が本物であるとはっきりした今、懐かしいような親しみを覚えるのだから不思議だった。


 かつての自分が暮らした地を思い浮かべ、バタルは郷愁に似た感情に身を任せるようにして、つまんだ小石の先を地面に当てた。

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