20 禁忌
バタルの叫びを聞き、ゼーナはいても立ってもいられず、目の前の
「バタル様!」
「どいてください!」
「だめだ」
頑なに譲らないズラーラにゼーナは歯噛みし、飛ぶ勢いを落とさないまま腕を突き出した。加減なしに打ち込まれた拳を、ズラーラが手の平で受け止める。瞬間、ぶつかり合った手から、破裂音と共に金の火花が雨粒のように散った。二人は同時にはっと息をのみ、慌てて距離をとる。さらに自身の手指が意思と関係なく溶けて煙となっているのを見て瞠目する。手指は瞬時に輪郭をとり戻したが、一連の体の反応は、魔人たちの肝を冷やさせるには十分だった。
「ちょっとあんたたち!」
空中で呆然とする二人に、
「喧嘩してる場合じゃないでしょう! あたし一人じゃあ、この数は止めきれないわよ!」
どこから沸いてくるのかというほど絶えぬうねりとなって押し寄せる
ズラーラが素早く距離を詰めて、ゼーナの手をつかんだ。
「戻るぞ」
「ですが、バタル様が!」
なお抗おうとするゼーナに、ズラーラは元々鋭い眼光をさらに怒らせた。
「今ので分かっただろう! 魔人同士の戦いはだめだ」
「でも!」
「大丈夫だ!」
争うゼーナとズラーラの間に割って入ったのは、バタルの声だった。振り向く二人の視線の先、黒衣の魔人の前にうずくまっていた若者がゆるりと立ち上がる。耳のあった場所を押さえている指の間からは、いまだ血が伝い落ち、乱れたターバンにも赤い色が染みていた。
「大丈夫だ」
繰り返したバタルの瞳には、変わらぬ生気があった。痛みに眉間をより険しくして、アラディーンを睨み据える。荒く息を吐きながら、バタルは口元に笑みさえ浮かべてみせた。
「魔人に、人は殺せない」
バタルを見下ろしていたアラディーンの細い眉が、ぴくりと跳ねた。
ゼーナはズラーラに引っ張られて、後ろ髪引かれながらも再び
武器を持たぬまま、バタルは最後の力を振り絞ってランプの魔人に躍りかかった。
これまでの戦いだけでも、バタルとアラディーンとの戦闘力の差は歴然としていた。ズラーラから得た力で一見して対抗できてはいるが、明らかに及ばないものが存在している。それでもバタルがいまだ戦い続けられているのは、殺さない加減をアラディーンがしているからだ。アラディーンも他の魔人と同じように、自身の消滅を恐れている。それがもっとも大きな隙だった。そしてその隙を補うはずの
致命的に動けなくなる攻撃だけは紙一重でかわしながも、バタルの体の傷は確実に増え、あちこちから血がしたたり、白い床にぽつぽつと赤い滴が落ちた。息をするだけで胸部に激痛が走る。おそらく肋骨にもひびが入っている。肉体の限界を感じたが、それでもなおバタルは攻撃を鈍らせることはしなかった。アラディーンが持つランプへと、何度でも手を伸ばす。
(ジャワードは、ファナンを連れ出せただろうか)
極限状態で意識が研ぎ澄まされる中、バタルの思考を不意に懸念がよぎる。
バタルにとってなによりも優先すべきなのは、妹ファナンの身の安全だ。元を正せばここまでの旅はファナンを助けるためであり、この戦いもこれ以上自分たちの平穏を脅かされたくないがゆえに始めたことなのだ。だから真っ先に、ジャワードへの願いに妹の身を託した。他の事由はバタルにとって、すべて
アラディーンは左手に自身のランプ、右手に短剣を持ったまま、息を乱すこともなくバタルをいなす。バタルは諦めずに、アラディーンの油断と隙を探し続けた。
もう幾度目が分からぬ回数、バタルがランプに手を伸ばした時だった。アラディーンが左半身を引いた拍子に、短剣を握る右手が体の前に無防備に浮いた。バタルはそれを見逃さず、その白い腕を強くつかんだ。見慣れた刃と鍔の形が視界に入り、少年魔人ズラーラへの申し訳なさが湧き上がる。しかし躊躇わず、歯を食いしばってアラディーンの右手を引き寄せ――刃はたやすく、バタルの腹を貫いた。
凍ったように、アラディーンが硬直する。
最後の意識で、バタルは口角を上げた。
「――おれの、勝ちだ」
✡
灰色の瞳から生気が消えた。アラディーンはつかまれた腕を慌てて振り払い、短剣を引き抜いたが、若者の体が力なく床に崩れ落ちただけだった。アラディーンの瞳と同じ紅が、大理石の床に広がっていく。無意識にあとずさる途中、全身に震えが走り短剣をとり落とした。短剣は鋭い音をたてて床に打ち当たり、剣身に残った血が赤い筋を描いた。
離れた場所で、いくつか悲鳴があがった。アラディーンがはっとして振り向けば、大広間に散って
娘魔人ゼーナと大男の魔人ウマイマが、倒れ伏す若者に引き寄せられるように落ちる。小さな少年魔人ズラーラだけが、アラディーンの足もとへ転がるように勢いよく降ってきた。
「バタル様!」
ゼーナがすぐさま若者の体に縋りついた。彼女は血の気の引いた顔で、自身の
「バタル様っ、バタル様!
無我夢中で呼びかけ体を揺するも、バタルが答えるはずもない。半狂乱になって泣き叫ぶゼーナに対し、ウマイマとズラーラは、着地したその場にただ呆然と座り込んでいた。
突然に脚の力が抜けて、アラディーンは崩れるように尻餅をついた。そうして視界に入った彼の脚は輪郭が揺らぎ、つま先からほどけるように金の煙となって溶けていた。
「あ……」
喉の奥から、自分のものと思えぬほど細い声が出た。声に反応するようにウマイマがこちらを見た。アラディーンは思わず助けを求めようとしたが、目が合ったのは一瞬で、即座に視線をはずされた。ウマイマの意識が向いたのは、アラディーンでなく、大広間にひしめく
止める者のいなくなった怪物が、漆黒の皮膚を光らせながら大挙襲来してくる。彼らがここまで押し寄せれば、バタルの体はあっという間に食い散らかされるだろう。
ウマイマは泣き崩れるゼーナを一瞥してから、バタルの革帯から鏡を抜きとり、立ち上がった。自身の依代である鏡をしっかりと握り、玉座の据えられた壇の縁に仁王立ちする。そのすぐ隣に、血の残る短剣を握った少年魔人も立った。
ウマイマは横目で、ちらとズラーラを見下ろした。
「まだ、三つ目の成就とはなってなかったのね」
「そうみたいだ」
静かに答えながらズラーラは腰を落として、戦う構えをした。
「
許しを請う声は金の煙と消え、あとには、ただのランプだけが残った。
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