20 禁忌

 バタルの叫びを聞き、ゼーナはいても立ってもいられず、目の前の食人鬼グールを振り払って飛び上がった。玉座ある壇上、黒髪の魔人の前にバタルがうずくまっている。頬を押さえている手の甲に血が伝っているのが見え、ゼーナは総毛立った。


「バタル様!」


 主人シディを守らねばという本能のまま、ゼーナは宙を走る。その行く手を、短剣の魔人ズラーラが遮った。ゼーナは構わず、自分より小さい少年の体を夢中で押しのける。だがその腕をズラーラはつかみ、懐に入って彼女を食人鬼グールの群れの中へ投げ飛ばした。


 食人鬼グールの牙など魔人の脅威にはならない。ゼーナは即座に黒い怪物を払いのけ、主人シディを救うべく飛んだ。だがやはり、その前に立ちはだかるのは、同じ主人シディを持つ少年魔人だった。


「どいてください!」

「だめだ」


 頑なに譲らないズラーラにゼーナは歯噛みし、飛ぶ勢いを落とさないまま腕を突き出した。加減なしに打ち込まれた拳を、ズラーラが手の平で受け止める。瞬間、ぶつかり合った手から、破裂音と共に金の火花が雨粒のように散った。二人は同時にはっと息をのみ、慌てて距離をとる。さらに自身の手指が意思と関係なく溶けて煙となっているのを見て瞠目する。手指は瞬時に輪郭をとり戻したが、一連の体の反応は、魔人たちの肝を冷やさせるには十分だった。


「ちょっとあんたたち!」


 空中で呆然とする二人に、食人鬼グールを蹴散らし続けていたウマイマがわめいた。


「喧嘩してる場合じゃないでしょう! あたし一人じゃあ、この数は止めきれないわよ!」


 どこから沸いてくるのかというほど絶えぬうねりとなって押し寄せる食人鬼グールに、ウマイマはじりじりと後退し始めていた。三人で手分けしてやっと押せていたほどの数なのだ。同時に二人抜けては、さすがに分が悪い。


 ズラーラが素早く距離を詰めて、ゼーナの手をつかんだ。


「戻るぞ」

「ですが、バタル様が!」


 なお抗おうとするゼーナに、ズラーラは元々鋭い眼光をさらに怒らせた。


「今ので分かっただろう! 魔人同士の戦いはだめだ」

「でも!」

「大丈夫だ!」


 争うゼーナとズラーラの間に割って入ったのは、バタルの声だった。振り向く二人の視線の先、黒衣の魔人の前にうずくまっていた若者がゆるりと立ち上がる。耳のあった場所を押さえている指の間からは、いまだ血が伝い落ち、乱れたターバンにも赤い色が染みていた。


「大丈夫だ」


 繰り返したバタルの瞳には、変わらぬ生気があった。痛みに眉間をより険しくして、アラディーンを睨み据える。荒く息を吐きながら、バタルは口元に笑みさえ浮かべてみせた。


「魔人に、人は殺せない」


 バタルを見下ろしていたアラディーンの細い眉が、ぴくりと跳ねた。


 ゼーナはズラーラに引っ張られて、後ろ髪引かれながらも再び食人鬼グールとの戦いに戻っていく。


 武器を持たぬまま、バタルは最後の力を振り絞ってランプの魔人に躍りかかった。


 これまでの戦いだけでも、バタルとアラディーンとの戦闘力の差は歴然としていた。ズラーラから得た力で一見して対抗できてはいるが、明らかに及ばないものが存在している。それでもバタルがいまだ戦い続けられているのは、殺さない加減をアラディーンがしているからだ。アラディーンも他の魔人と同じように、自身の消滅を恐れている。それがもっとも大きな隙だった。そしてその隙を補うはずの食人鬼グールは今、バタル配下の魔人たちが抑え込んでいる。


 致命的に動けなくなる攻撃だけは紙一重でかわしながも、バタルの体の傷は確実に増え、あちこちから血がしたたり、白い床にぽつぽつと赤い滴が落ちた。息をするだけで胸部に激痛が走る。おそらく肋骨にもひびが入っている。肉体の限界を感じたが、それでもなおバタルは攻撃を鈍らせることはしなかった。アラディーンが持つランプへと、何度でも手を伸ばす。


(ジャワードは、ファナンを連れ出せただろうか)


 極限状態で意識が研ぎ澄まされる中、バタルの思考を不意に懸念がよぎる。


 バタルにとってなによりも優先すべきなのは、妹ファナンの身の安全だ。元を正せばここまでの旅はファナンを助けるためであり、この戦いもこれ以上自分たちの平穏を脅かされたくないがゆえに始めたことなのだ。だから真っ先に、ジャワードへの願いに妹の身を託した。他の事由はバタルにとって、すべてだ。


 アラディーンは左手に自身のランプ、右手に短剣を持ったまま、息を乱すこともなくバタルをいなす。バタルは諦めずに、アラディーンの油断と隙を探し続けた。


 もう幾度目が分からぬ回数、バタルがランプに手を伸ばした時だった。アラディーンが左半身を引いた拍子に、短剣を握る右手が体の前に無防備に浮いた。バタルはそれを見逃さず、その白い腕を強くつかんだ。見慣れた刃と鍔の形が視界に入り、少年魔人ズラーラへの申し訳なさが湧き上がる。しかし躊躇わず、歯を食いしばってアラディーンの右手を引き寄せ――刃はたやすく、バタルの腹を貫いた。


 凍ったように、アラディーンが硬直する。


 最後の意識で、バタルは口角を上げた。


「――おれの、勝ちだ」



 ✡



 灰色の瞳から生気が消えた。アラディーンはつかまれた腕を慌てて振り払い、短剣を引き抜いたが、若者の体が力なく床に崩れ落ちただけだった。アラディーンの瞳と同じ紅が、大理石の床に広がっていく。無意識にあとずさる途中、全身に震えが走り短剣をとり落とした。短剣は鋭い音をたてて床に打ち当たり、剣身に残った血が赤い筋を描いた。


 離れた場所で、いくつか悲鳴があがった。アラディーンがはっとして振り向けば、大広間に散って食人鬼グールを足止めしていた三人の魔人が、一斉にこちらに向かって飛んできていた。泡を食った様子から、彼らの意思でないと分かる。


 娘魔人ゼーナと大男の魔人ウマイマが、倒れ伏す若者に引き寄せられるように落ちる。小さな少年魔人ズラーラだけが、アラディーンの足もとへ転がるように勢いよく降ってきた。


「バタル様!」


 ゼーナがすぐさま若者の体に縋りついた。彼女は血の気の引いた顔で、自身の主人シディだった者の上体を抱き起こす。


「バタル様っ、バタル様! ご主人様シディ! 主人シディバタル様ぁっ!」


 無我夢中で呼びかけ体を揺するも、バタルが答えるはずもない。半狂乱になって泣き叫ぶゼーナに対し、ウマイマとズラーラは、着地したその場にただ呆然と座り込んでいた。

 突然に脚の力が抜けて、アラディーンは崩れるように尻餅をついた。そうして視界に入った彼の脚は輪郭が揺らぎ、つま先からほどけるように金の煙となって溶けていた。


「あ……」


 喉の奥から、自分のものと思えぬほど細い声が出た。声に反応するようにウマイマがこちらを見た。アラディーンは思わず助けを求めようとしたが、目が合ったのは一瞬で、即座に視線をはずされた。ウマイマの意識が向いたのは、アラディーンでなく、大広間にひしめく食人鬼グールだった。


 止める者のいなくなった怪物が、漆黒の皮膚を光らせながら大挙襲来してくる。彼らがここまで押し寄せれば、バタルの体はあっという間に食い散らかされるだろう。


 ウマイマは泣き崩れるゼーナを一瞥してから、バタルの革帯から鏡を抜きとり、立ち上がった。自身の依代である鏡をしっかりと握り、玉座の据えられた壇の縁に仁王立ちする。そのすぐ隣に、血の残る短剣を握った少年魔人も立った。


 ウマイマは横目で、ちらとズラーラを見下ろした。


「まだ、三つ目の成就とはなってなかったのね」

「そうみたいだ」


 静かに答えながらズラーラは腰を落として、戦う構えをした。


 主人シディが死してなお守ろうとする魔人たちをアラディーンは見詰めていたが、ついに上体を起こしていられなくなり背中から倒れた。どんなに意識で抗おうと体は解けゆき、もはや実体が保てない。それでも、かろうじて両腕を伸ばし、うつ伏せ、床を這った。もう完全に脚はなく、残された腕の力だけでじりじりと進み、玉座の後方を目指す。そこでは、愛すべき主人シディが彼を見下ろしている。遠くなる五感の中、アラディーンは主人シディの黒い眼窩を見詰め返し、求めるように手を伸ばした。


ご主人様シディ……主人シディ、ラフィーア……申しわけ、あ……」


 許しを請う声は金の煙と消え、あとには、ただのランプだけが残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る