15 残虐妃
体が宙に放り出される感覚と同時に、どんでん返しのように目の前の景色が変わった。間近に視界を覆った文様がラフィーア妃の部屋の天井のものと分かった直後には、さらに強く背中を引っ張られて、柔らかなものへ大の字に叩きつけられた。
なにが起きたのか理解が追いつかず、バタルは呆然とした。ジャワードも天井を見詰めたまま、ぽかんと口を開いている。金髪の魔人がこのような表情をするのは珍しい。彼もひどく驚き、状況が分かっていないのだ。陶酔感で霞がかっていた思考は鮮明さをとり戻していたが、今度は混乱で働きを鈍らせていた。ただ、景色の変わる前後で状況がまるで繋がらないので、再び時間が飛んだのだろうことは漠然と理解した。
重なり合うクッションの感触で、ジャワードの体が着地したのが寝台であることは分かった。叩きつけられた体勢のまま、伸ばした手足をわずかも動かさずに天井を見詰める。
「引き戻された……?」
ぽつりとこぼれたジャワードの呟きは、かすかに震えていた。それで彼がなにかを把握したのは分かったが、それがなにかまではバタルには伝わってこない。
不意に、かすかな金臭さが鼻先をかすめた。匂いに気づいたジャワードが、ゆっくりとした動作で起き上がる。見渡した室内で彼が見つけたのは、鏡台の前に影のようにうずくまる黒衣の魔人だった。同族の姿をみとめ、ジャワードは這って寝台の縁まで移動した。その呼吸は、浅く速い。
「アラディーン。ラフィーアは」
ジャワードの震える問いかけに、アラディーンは長身をさらに小さく丸めた。
「……守れなかった」
聞きとれるか否かの細い声で、アラディーンが言った。ジャワードは息をのむこともなくただ放心し、定まらぬ焦点で、同じ
この時、バタルはすでに気づいていた。うずくまるアラディーンの足もとに、血だまりがゆっくりと広がっていることに――先ほどの金臭さの正体だ。そこからわずかに視線を上げれば、身を丸めたアラディーンが質量のあるものを胸に抱え込んでいて、血はそれから流れ落ちていると分かる。
バタルが気づいたのだから、ジャワードも気づいてしかるべきだが、彼はまだ事態を冷静に受け入れられていないのだろう。
彼の状況把握が遅れているのは、おそらく直前まで
アラディーンが、苦しげな嗚咽を漏らした。
「間に合わなくて、申しわけありません……
懺悔のように訥々と語られる言葉は、ジャワードでなくラフィーア妃に向けられたものだ。ランプの魔人は、
アラディーンのあまりに痛ましい姿から目を引き剥がすように、ジャワードはラフィーア妃の部屋を見回した。金髪の魔人は徐々に、普段の冷静さをとり戻しつつあった。
室内にラフィーア妃の体はなく、アラディーンの足もとの他には血の跡も、争った形跡もない。ラフィーア妃は
青年魔人の嗚咽と懺悔だけが響く室内で、ジャワードはもう一度、アラディーンへ目を戻した。
「……アラディーン」
再び呼びかけると、アラディーンは今度は振り向いた。見開かれた紅の目がらんと光ったように見えて、はっとする。
「奴ら、証拠をねつ造したんだ――わたしはすべてうまくやっていた。なのに、奴らが!」
毎日一人ずつ、女が消えていく。首謀者と目される人物は一人しかいないのに、証拠がないために罪を問えない。そのような状況で、明日は我が身と恐慌する人々が自身を守るためになにを考えるか――その顛末が目の前にある。
アラディーンが立ちあがり、鏡台に置かれたままのランプをつかんだ。ラフィーア妃の首と共にランプを抱えた青年魔人の体が浮き上がる。
「アラディーン! どうするつもりだ!」
呼び止める声にランプの魔人は振り返らず、露台から外へと飛び出していった。
「アラディーン!」
ジャワードは咄嗟に追おうとしたが、寝台を下りたところで身動きをとれなくなった。いくらか足掻くも無駄と悟り、ついには寝台に背中をあずけて床に座り込む。首を反らせて仰向いたジャワードは、顔を覆って長く息を吐いた。
そのまましばらく動かなくなったジャワードに、バタルは不安を抱いた。姿を消したアラディーンも気になるが、ジャワードまで自棄を起こすのではないかと心配になった。それを考えてもおかしくないほどの、喪失感と寂寥が胸の内に渦巻いている。
一体どれだけの時間、そうしていたかは分からない。長い時をかけてもう一度息を吐いたジャワードが、なにかに切りをつけるように背中を浮かせた。そのまま体の向きを変えて屈み込むと、寝台の敷布をまくり上げる。寝台の下に腕を突っ込んだジャワードは、手に触れたものをつかんで引っ張り出した。
それは、丸めて紐で縛られた絨毯だった。長くその場所にしまい込まれていたせいか、元々古ぼけている絨毯が薄く埃を被って、さらにみすぼらしいありさまになっている。表面の埃を軽くはたいて、ジャワードは苦笑した。
「趣味じゃないからって、こんな扱いすることないのに」
ぼやきながら紐を解いて絨毯を広げたジャワードは、傷や染みがないことを念入りに確認した。最後に見た時となにも変わったところがないことに満足すると、絨毯の表面に手を当てたまま再び物思いにふける。しかし今度は、さほど長く考え込むことはなかった。部屋の外が、にわかに騒がしくなったからだ。
いつまでもここにいるべきでないことは、バタルにも分かった。誰かに姿を見られる前に、去らなくては。
ジャワードは無言のまま、絨毯に胡座を組んで座った。もう一度だけ、絨毯の表面を手の平で撫でる。
「行こう」
短い呟きに応えて、絨毯が音もなく浮き上がる。滑るように走り出した先は、温かな陽光が差し込む露台だ。外へと飛び出した途端、バタルの視界は真っ白な光に覆われた。
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目を焼かれるのではというほどの視界の白さに、バタルは小さく呻いた。
「眩し……」
口を突いて出た声は、なによりも聞き慣れた自分の声だった。それに気づいたバタルは、目を焼く光を警戒しながら慎重に目蓋を開いた。
最初に目に入ったのは、見知った緑の瞳だった。白い光を背に、栗色の髪の娘がバタルの顔を間近に覗き込んでいる。
「……ゼーナ?」
起き抜けのようにすっきりしない意識の中で呼びかけると、指輪の魔人ゼーナは不安げだった顔をほころばせた。
「バタル様、よかった……」
呼び返した声にもゼーナは安堵を覗かせ、握ったバタルの右手を頬に寄せた。
バタルは地面に敷いた絨毯の上で仰向けに寝かされていた。頭の下に柔らかな枕が当てられていて、心地よい温かさがあった。目覚めるきっかけになった白い光は、彼らのいる谷間に差し込んだ日の光だ。追憶の中では何日もの日々が過ぎていたが、実際には一晩のことであったらしい。あまりにも強烈な記憶の余韻が、思考に焼きついて尾を引いている。それでも、ゼーナの頬の柔らかさが指に触れると、急速に現実が戻ってくる感覚があった。
指輪の輝く右手を頬に寄せてほほ笑んでいる娘魔人を見上げ、バタルは戻ってきた実感と安らぎに自然と笑みを返した。
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