14 恍惚

 アラディーンが姿を消すとラフィーア妃はすぐさま、数歩離れた位置から静かになりゆきを傍観していたもう一人の魔人へと向き直った。


「ジャワード」


 呼びかけたラフィーア妃の声は先ほどの楽しげなものともまた違う、鼻にかかった甘いものだった。腕を開いてジャワードに駆け寄ったラフィーア妃は、躊躇わず彼へと抱きついた。絨毯の魔人はその腕に応えることはしなかったが君主スルターンの正妃はお構いなしに、金髪碧眼の美貌に頬をすり寄せた。


「ごめんなさい、ずっとこうできなくて。ジャワードが嫌いになったわけではないの。アラディーンがやきもち焼きなせいなのよ。彼ったら、わたくしがジャワードに構うと機嫌が悪くなるんだもの。わたくしはとっても寂しかったわ。ジャワードもそうでしょう」


 ジャワードが返事をしないことなどまったく気にならない様子で、ラフィーア妃は媚びる声で言い募る。


(……なんて妃なんだ)


 体が自分のものであったら、バタルは頭痛に耐えかねてこめかみを押さえるところだ。ラフィーア妃は到底賢い人物ではなく、それゆえの浅慮から出る言動の姑息さが、バタルに強い拒否感と嫌悪感をもよおさせる。彼女にもう少し狡猾さがあったならば、嫌悪感を拭えないまでも、これほどの気分の悪さはなかったのではとまで思えた。


 ジャワードは相変わらず、ラフィーア妃を受け入れるでも拒絶するでもなく、好きにさせている。ラフィーア妃はジャワードの首筋に口元を埋めてぴたりと体を寄せ、手入れを欠かさない指先を背骨の上から這わせた。


後宮ハリームからわたくし以外の女がいなくなれば、ジャワードとも、もっとゆっくりできるわね」


 ラフィーア妃の吐息を皮膚に感じながら、ジャワードも笑いに息を漏らした。


「女たちを殺すのは、君主スルターンのためだと思っていたよ」

「それはもちろんよ。でも他の女たちはとても欲張りだから、ジャワードの顔を見たらすぐに色目を使ってくるに決まってるわ。ちっとも安心してあなたを部屋から出してあげられない。でも女たちがいなくなれば、気にせず一緒にいられるわ」


 ジャワードの嫌みにラフィーア妃は少し唇を尖らせたが、機嫌を損ねることもなくひたすら自身に都合のいい論理を展開した。ジャワードはもはや、ため息も出ず、乾いた笑いで喉を震わす。


「そうなるといいけどね」

「なるわ、もうすぐ。毎日殺せばすぐに……」


 途中ではっとしたように、ラフィーア妃は言葉を途切れさせた。密着させていた体を離し、打って変わって追い詰められた顔でジャワードを見上げる。


「大変、ジャワード。後宮ハリームの女を減らしても、すぐに新しい女が外から来てしまうわ。どうしてわたくし以外の女って、揃って欲深くて意地が悪いのかしら。皆、わたくしの邪魔ばかり」


 もう彼女がなにを言っても、バタルは驚かなくなっていた。自己中心的な思想もここまでくれば、ある種の感慨さえ覚える。


 ラフィーア妃は自身の悪辣さに無自覚なまま、悩ましげな表情でもう一度ジャワードの胸元に身を寄せた。


「どうしましょう。アラディーンには、後宮ハリームの女を、と言ってしまったわ。あとからでも言ったら聞いてくれるかしら。範囲を広げるだけだし。きっとできるわよね、ジャワード」


 ラフィーア妃が小さく首を傾けて問うと、ジャワードはわずかに身を固くした。ずっと淡くほほ笑んで主人シディを見下ろしていた頬までも強張る。ラフィーア妃が返事を催促するように、首をまた逆へ傾ける。躊躇う間を置いて、ジャワードはどこか諦めをにじませて答えた。


「できないよ、ラフィーア。魔人が受けとった願いは、あとから変えられない」

「範囲を広げるだけでもだめなの?」


 ラフィーア妃は少しだけ不服げに、眉を寄せて食い下がる。ジャワードは哀れむように、彼女の頭に手の平を乗せた。


「魔人が一度願いを受けとったら、それがすべてなんだ。だから、できないよ」

「そうなの……」


 落ち込んだように、ラフィーア妃はわずがに俯く。しかしそれはつかの間で、彼女はすぐに顔を上げて正面からジャワードを見た。


「それなら、ジャワードにお願いをするわ」


 ジャワードの追憶の中で数々の恐ろしいものを見てきたが、バタルはこの言葉にもっとも凍りついた。先ほどラフィーア妃の問いかけでジャワードが身を強張らせたのは、こうなるだろうことを予期したからだと、遅れて気づいた。


 ラフィーア妃は頭に置かれているジャワードの手を緩くつかみ、頭の形に添うように引き下ろして頬へと当てた。


「ジャワード。後宮ハリームの外で美しいと評判の女や、後宮ハリームに入る可能性のある未婚の若い女を毎日一人ずつ、誰にも知られないようにわたくしのところへ連れてきて。陛下をたぶらかす性悪女が一人もいなくなるまで。わたくしからのお願いよ」


 願い、という言葉に呼応するように、ジャワードの眼差しがラフィーア妃の瞳にぴたりと合わされた。体の中心で血が沸き立つような熱さを覚え、未知の感覚にバタルは焦った。


(だめだ、ジャワード!)


 自身の体でないことも忘れて、バタルは叫ぼうとした。それは声になろうはずもなく、無為に胸の内でだけでこだまする。この先起きるだろう残虐な行為にジャワードを加担させてなるものかと、必死に足掻こうとするも、これは遙かな過去に起きたことだ。とっくに過ぎ去った物事へ、バタルの抵抗が影響を与えるはずもなかった。


 頭の天辺からゆっくりと、生ぬるい陶酔感が全身を包み始めた。それは抗いがたいほどの恍惚をもたらし、魔人の理性をじわじわと引き剥がそうとしてくる。


 やがてジャワードは、主人シディの前に両膝をついた。


「……承ったよ。主人シディラフィーア」


 ラフィーア妃が、赤い唇で艶然と笑った。


 ジャワードが感じている陶酔に、バタルの思考力まで浸食されるようだった。頭の中心が熱に浮かされた時のようにぼんやりとしてよく働かない中で、以前に短剣の少年魔人が「魔人は道具だ」と言っていたのを思い出す――魔人は、主人シディに仕え願いを叶えることに快楽を覚えるのだ。その一端を体感することがあろうとは思わなかったが、この強い恍惚と幸福感の誘惑はあまりに逃れがたい。


主人シディに逆らえないっていうのは、こういうことか……)


 これでは、禁に触れる願いを拒絶しきれずに、身を滅ぼす魔人がいて当然と思えた。魔人は主人シディに見返りを求めないのではなく、願いを叶えるという行為そのものが見返りとして機能しているのだ。


 バタルが、包み込まれるような陶酔感に溺れそうになった時だった。突如、背中側からなにかで吸い寄せられるように、全身が強く引っ張られた。

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