10 窮地
バタルは凍りつき、心臓さえ止まったと思った。短剣捜索に手間どっている間に、盗賊たちが戻ってきたのだ。刃を突きつけられるまではまるで人の気配などなかったのに、この一瞬の間で、無数の足音と囁き声があちこちからしている。
洞穴の入り口を開けっぱなしにしていたのがまずかった。閉じていれば、岩壁の動く音で気づいて隠れることもできたはずだ。こういう細かな詰めの甘さをいつも妹に叱られていたというのに、肝心なところでやはり性格が出てしまう。
首に押し当てられている薄く冷たいものが少しでも引かれれば、バタルの命はそれで終わるだろう。
息をのむことさえできずにバタルが硬直していると、背後の声がさらに続けた。
「ここでなにをしてる」
威圧感ある問いかけに、バタルの背中を粘つく汗が流れていく。体の横で両手を開くことで武器を持っていないことを示しながら、バタルは震える声で答えた。
「少し、捜しものを」
「どうやってこの場所を知った」
間髪入れずに詰問され、答えに窮す。どう返すのが正解かをバタルが必死で考えていると、背後の男に別の誰かが囁いた。
「こいつ、さっきの
バタルが思わずぎくりとした一方で、剣を突きつけている男が、へえと笑った。
「ここまで、つけられてたってことか」
刃が一瞬だけ皮膚から離れた。しかしまだ、首を切り裂ける距離にあり、視界の端で揺れる切っ先に、バタルは息を詰めた。
盗賊からの尋問は続く。
「てめぇ一人か?」
再び刃を押し当てられては頷くこともできず、バタルはできるだけ首を動かさぬようゆっくり喋った。
「……おれ一人だ」
「本当だな」
「スライマンに誓ってもいい」
「そうか。それじゃあ――てめぇだけ処分したら終わるな」
首に触れている剣に、力が込められる。死を覚悟して、バタルはきつく目をつむった。
直後、首にあった刃の感触が消えた。痛みを感じる間もないまま動脈を切り裂かれたのだと思った。しかし真っ直ぐに立てている自分に気づき、バタルは恐々と首筋に手を当ててみた。首はしっかりと繋がっていた。
不意に、背後で盗賊が凄んだ。
「どこから出てきやがった、この
「
女の声が答えた。同時に、男のくぐもった呻きがあがる。バタルは驚いて目を開き、突きつけられていた刃がなくなっているのを確認しながら、恐る恐る振り向いた。
若い娘が一人、バタルに背を向けて立っていた。波打つ栗色の髪が垂れた細い背中は、淡い小麦色の肌が広く見えていて、露出の多い舞踊装束を纏っているようである。娘はしなやかな肉感の見てとれる腕を掲げ、三日月刀を握る男の手をねじり上げていた。
(誰だ……?)
顔が見えないので断言はできないが、こんな場面に現れるような踊り子の知り合いはいないはずだ。けれど声には記憶の琴線に触れるものがあり、バタルは怪訝に眉を寄せた。
しきりに藻掻く男に動じることなく、娘は言葉を重ねる。
「これ以上
娘の声はごく穏やかで、言葉の内容はともかく、耳に大変心地よく響いた。しかし細腕一本で男の動きを封じている姿を目にしてしまうと、なかなか異様な状況である。その尋常ならぬ様子に圧倒されてか、周囲の盗賊たちは立ち尽くしてなりゆきに見入っていた。
「この
動きを封じられた男は顔を歪めて足掻くが、娘の腕はビクともしない。それどころかつかんだ腕にさらに力が込められ、ついに男の手から剣が落ちた。みしりと、男の関節が悲鳴をあげる。
「これ以上は腕が折れます。お引きください」
彼女がどのような表情でそれを言っているのか、バタルの位置からでは見ることができない。押さえられている男は額に脂汗を浮かべて娘を睨みつけていたが、不意に周囲へ向けてわめいた。
「なにぼうっとしてやがる! さっさと侵入者を始末しろ!」
その声で我に返った盗賊たちが、一斉に剣を抜いた。
もっとも速い一人が、身を低めて娘へと斬りかかった。胴を目がけた一閃。娘は紙一重で身を引いてかわす。入れ替わるように、腕をつかまれていた男が前へと押し出される。娘は手を放すと同時に、その腹を蹴りつけた。男の体は軽々と飛び、直線上にいた仲間を巻き込んで壁へと叩きつけられた。
蹴りの勢いを逃がすように娘が身を回転させると、腰に巻かれている薄布が翻り、悩ましいまでもの脚線美が露わになった。その脚を大きく開いて仁王立ちした娘は、顔だけで振り向いてバタルへと目線を向けた。
「
娘の言葉が本当に自分に向けられているのかと、バタルは判断に迷った。だが深い緑の眼光に射貫かれれば、夢中で頷くしかできなかった。
この一瞬のやりとりの間に、何人もの盗賊が娘に迫った。娘は振り返ると同時に、流れる動きで右の男の手を剣の柄ごとつかんだ。その剣で正面の男の白刃を受け止め、払いざまに右の男を投げ飛ばしてまとめてなぎ倒す。眉一つ動かすことなく男二人を排除した娘は、さらに襲い来る盗賊たちの中心へと身を躍らせた。
娘の戦いぶりに、バタルはただただ見入るしかできなかった。躍動する肢体から繰り出される打撃は鋭く、女の細身と思えぬほどに重い。すらりと伸びた脚が盗賊を打ち倒すたび、細くくびれた腹がしなやかな筋肉のうねりを見せる。その姿は舞踊装束も相まってまさしく舞うようであり、バタルはその
娘が正面の三人を相手にしている時だった。その背後に迫る、もう一人がいた。
バタルはとり返したばかりの短剣を咄嗟に抜き放ち、娘の背中に全力で走り寄った。娘をかばうように、刃の前へと身を滑り込ませる。金属のぶつかる鋭い音が響き、洞穴内で激しく反響した。
最初の一打を受け止めたバタルは、続く二打目もかろうじて押し戻すも体勢を崩して尻餅をついた。さらに三打目が振り上げられ、バタルはすでに痺れている手の平に力を込めて短剣を掲げ、歯を食いしばった。
三度目の剣戟。その瞬間、刃の打ち合ったその一点から、金色の煙が噴き出した。突然のことに、バタルも相手の盗賊も驚いて反応が遅れる。その間に金の煙はバタルの前で
煙が完全に消え去る。そこに現れたのは、十歳にもならないだろう少年だった。
「呼ばれたと思ったら、どういう状況なんだこれは」
声変わり前の高音で、少年が不機嫌そうに吐き捨てた。尻餅をついたまま仰天しているバタルに、ちらと目線が向けられる。少年の引き結ばれた口元は丸くあどけないものだったが、琥珀に輝く眼光は狼を思わせる鋭さがあった。
少年は目線を上げて、バタルの背後で盗賊を蹴散らしている娘の方を見やった。それでなにかを察したのか、顔を正面に戻して呟いた。
「とりあえず、こいつらを倒したらよさそうだな」
言うが早いか、少年は小さな体で軽々と飛び上がり、娘の背中側にいる盗賊をまとめて引き受けた。
娘に劣らず少年も強かった。小さな体のどこにそれだけの力を秘めているのか、大男の首に足を絡めて後ろへと引き倒し、そのまま宙返りの要領で投げ飛ばす。飛ばされた大男は迫っていたもう一人にぶつかり、もろとものされた。唖然とするバタルの目の前で、少年は自身の身長の倍はあろうかという大人たちを、軽快な足さばきで次々とくだしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます