9 いたずら

 身支度をしたラフィーア妃が居室を出て行く音を聞くと、ジャワードは緊張を解いて寝室の絨毯に寝そべった。すぐ横にはたっぷりと綿の詰められたカウチがあるにもかかわらず、彼があえて床を選んだことに、バタルは疑問を抱いた。


(絨毯の魔人だからかな)


 魔人の考えはバタルには分からないが、依代としている魔法道具によって好みや行動が影響を受けることもあるのかもしれない。寝台にいるよりもジャワードが居心地よくくつろいでいるのが、彼の五感を通してバタルにも伝わってきた。


(そういえば、ジャワードの絨毯はどこだろう)


 寝室に敷かれているのは、部屋の豪華さに見合う草花文様が鮮やかな大きな絨毯だ。ジャワードの絨毯とは、柄も大きさもまったく違っている。ジャワードの目を通している以上、室内をくまなく観察できるわけではないので見落としている可能性もあるが、少なくとも目につく場所には置かれていないようだった。


 つかの間ジャワードは、身を休めるように目を閉じて寝そべっていたが、またすぐに体を起こした。奥の寝台の方を向いて胡座をかいた絨毯の魔人は、呆れを込めてため息をついた。寝台の上では黒髪の青年アラディーンが、素肌をさらしたまま無表情に座り込んでいた。


「いつまで、そうしてるつもりだい」


 ジャワードに声をかけられて、アラディーンは俯き加減だった紅の眼差しをようやく上げた。その眉間には、不快げな溝が刻まれていた。


「こんなのは間違っている」


 低く呟くように言ったアラディーンに、ジャワードは片眉を上げた。


「なにを間違ったって言うんだ」

「このやり方だ」

「ああ。三人は初めてだったか」

「そういうことではない!」


 アラディーンが顔を赤くして怒声をあげると、ジャワードはむしろ愉快に笑い声をたてた。ひとしきり笑ったジャワードは、嘲笑だけを口元に残して胡座に頬杖をついた。


「貞操観念だなんて言い出したら、ぼくは君を軽蔑するよ。そんなもの魔人がするべき話じゃない。ご主人様シディの求めに応じて関係を持つなんて、魔人には日常だ。経験がないだなんて言わせないよ。言えやしないだろうけど」

「そんなことは分かっている」


 素早く反駁したアラディーンは、眉間の皺をさらに険しくした。


ご主人様シディがそれを願うなら仕方ない。しかしこんな、とり入るようなやり方は、間違っている」

「なにも間違ってなんかないさ」


 ジャワードは立ち上がり、寝台の方へと移動した。寝台の横に立つと、アラディーンが座ったまま睨む眼差しで見上げてきたが、ジャワードは堪えることもなく余裕の笑みを返して隣に座った。


ご主人様シディに気に入られた方が、居心地がいいに決まってるだろう。なにが問題なんだ。ラフィーアは欲求に素直で扱いやすいから、ぼくとしてはやりやすくて助かってるくらいだ」

「扱いやすいなんて、ご主人様シディに対して使う言葉ではない。あと、呼び捨てもやめろ。無礼だろう」

「嫌だね」


 ジャワードは眉を逆立てるアラディーンにはとり合わず、体の後ろに両腕をついて脱力した。


ご主人様シディから言われるならまだしも、あとから来た君に指図されるいわれはないよ。それに――」


 言葉を区切ったジャワードは、いまだ衣服をつけていないアラディーンの白い上半身を横目に見た。


「君はもう、君が間違っていると主張するその行為をしたんだ。拒否することだってできたのに、しなかったのは君だ」

「それは……」


 アラディーンが言葉を詰まらせた一瞬、ジャワードは身をひねって彼の方へと身を乗り出した。驚いてのけぞった青年魔人の、卵形の顎をつかんで顔を寄せる。


「君はラフィーアの癇癪をなだめる選択をしただけだ。なにも間違っちゃいない。これで君も、彼女の機嫌のとり方を覚えたはずだ。正論を持ち込んで居心地が悪くなるくらいなら、愚か者になった方がずっと賢い」


 金髪碧眼の魔人が怪しく笑い、アラディーンは厳しい表情のまま小さく喉を鳴らした。


「――わたしは君と同じようには考えない。手を離せ」


 顎をつかむジャワードの手を、アラディーンは右手ではたくように振り払った。軽く押しのけられて、ジャワードは逆らわず、すんなり身を引く。


(ジャワードの性格の悪さは昔から変わらないんだな……)


 バタルはアラディーンに心の底から同情した。まだしも現代のジャワードの方が、いくぶんましにはなっているのかもしれない――とも思ったが、今バタルが置かれている状況をかんがみて、その見解をすぐさま否定した。


(本当にたちの悪い奴)


 これまでの発言から察するに、ジャワードの刹那的な思考傾向は、ラフィーア妃のもとでより濃く形成されたのではという見方もできた。だからといって、彼のひねくれた性格を擁護しきれるものでないが。


 黒髪の魔人は拭うように顎をこすりながら、横目にジャワードの金髪を一瞥した。


「ジャワードは、ずっと主人シディラフィーアの下にいるのか」

「君の言うずっとがどの程度の期間を指すのによるかな」


 ジャワードははぐらかしたが、アラディーンもさすがに彼の性格を把握し始めてか、表情を緩めはせずともそれ以上険しくもしなかった。


主人シディラフィーアが欲求に素直だというなら、君がいつまでもここにいるのもおかしな話ではないか。欲深い人間ほど願いをすぐに使い果たして、魔人を長く傍に置くことがない」


 寝台の下に落ちている衣類を魔法でたぐり寄せながら、アラディーンは指摘した。ジャワードは身なりを整え始めたアラディーンの方を見やると、彼が着ようとしている黒の長衣ディスダーシャの袖を横から引っ張り、素早く奪いとって再び寝台の外へと放ってしまった。そんないたずらをされようとは思いもかけなかったアラディーンは、唖然としていたが、すぐに目を怒らせてジャワードを睨んだ。


「なにをするんだ」


 アラディーンは憤然としたが、直後ジャワードに肩をつかまれて慌てて身をよじった。体勢が崩れるまま、二人でもつれるように倒れ込む。すかさずアラディーンの長身に乗り上げたジャワードは、彼のむき出しの肩を寝具に押しつけて動きを封じた。


「君は視野が狭すぎる」


 ジャワードは低く囁いた。怪訝に見上げてくる紅の瞳に、驚きや憤りに混じってわずかな恐れが透けて見え、薄ら笑う。


「富と権力の揺り篭の中で甘やかされて、君主スルターンの正妃という地位まで手にしているような女が、魔人の力に縋ってまで欲しがるものはなんだと思う?」


 問いの形をとってはいたが、ジャワードは答えを求めてはいなかった。アラディーンがなにかを言う前に、畳みかけるように続けた。


「自分の言動を省みずに、誰も愛してくれないと駄々を捏ねるような愚かな人間は、魔人の手にだって余る」


 だから仕方ないのだと、ジャワードは訴えたつもりだったが、アラディーンは瞳に浮かぶ怒りの色を濃くした。肩を押さえつける腕の片方を強くつかみ返した黒髪の魔人は、さらにもう一方の腕を持ち上げてジャワードの胸倉をつかんだ。


「ジャワード、ご主人様シディを侮辱するのもいい加減にしろ。わたしからしたら、そんなことを平然と言える君の方がずっと愚かであさましい」


 声を荒らげるアラディーンに、ジャワードは笑みを消した。


「あさましい、ね……まあ、否定はしないさ。ただ、君にぼくを批難する資格はない。それを許されるとしたら、自分の存在を捧げてあのご主人様シディの願いを叶えた魔人だけだ。今のところ、ぼくには心当たりがないけれど」


 ジャワードの言葉に容赦はなく、アラディーンは追い詰められたように唇を噛み、胸倉をつかむ腕が震えた。


 ラフィーア妃が口にする願いは、魔人の禁忌に触れるものばかりだ。たやすく叶えてやれはしない。不死身の魔人とて、自身の消滅が怖くないはずがないのだ。


 苦しげな表情のアラディーンの肩と腕にさらに体重をかけ、その胸板の上へうつ伏せるようにジャワードは身を沈めた。黒髪の魔人の耳元まで唇を寄せた金髪の魔人は、鼓膜へ直接息を吹きかけるように囁いた。


「ぼくらはもう、同じ穴のむじなだ」


 ジャワードは、目の前の白い耳たぶにかみついた。


「やめろ!」


 仰天したアラディーンが悲鳴のように叫び、ジャワードの頭をはたいて突き飛ばした。衝撃で、二人の体を形作っている魔法が互いに反応し、小さな火花をたてる。アラディーンの体から転げ落ちたジャワードは、そのまま寝具に頬杖をついて横になった。


「なにするんだ。痛いじゃないか」

「それはこちらの台詞だ! 悪ふざけも大概にしろ」


 裸のまま寝台から飛び起きたアラディーンは、肩を怒らせて歩き出した。彼が軽く腕を振ると、散らばっていた黒衣がひとりでに舞い上がり、白い背中を目がけて飛んでいく。衣服がアラディーンの体をとり巻き、一瞬あとには一分の隙もなく着込まれていた。


「つき合っていられない」


 いら立たしげな呟きと共に、アラディーンの輪郭が溶けて金色の煙に変わった。


 アラディーンが激怒するのは当然だとバタルは胸の内で思いながら、目ではしっかりと金の煙の行く先を追った。


 煙は寝室を横切って漂い流れ、壁際の鏡台へと向かっていく。細く伸びた煙は、そこに置かれた金のランプへと吸い込まれていった。


(――あれが、アラディーンの魔法道具)


 ようやく目的のものを見つけた高揚感の中、バタルはジャワードの視界を通してランプを凝視した。


 芯を出すための口が横にひょろりと突き出したランプは、ごく一般的な真鍮製のものであるようだった。表面には隙間なく装飾文様が彫り込まれているが、今いる位置からではなにが描かれているかまでは分からない。それでも、渦を描くような把手とっての曲線の優美さは見てとれる。その把手から極細の鎖が垂れ下がり、円錐形の蓋のつまみに繋がっていた。


「少しいじめ過ぎたかな」


 呟いたジャワードの声に、反省の色はなかった。彼が寝台から立ち上がると同時に、乱れた寝具が動き出し、なにごともなかったかのようにぴたりと整った。


 すっかり静かになった寝室の中央まで移動した金髪碧眼の魔人は、再び絨毯の上にごろりと寝そべった。深い呼吸と共にジャワードが目蓋を閉じ、バタルの視界も塞がれる。


(おれは、いつまでこの状態なんだろう)


 分厚い絨毯の感触を背中に感じながら、バタルはぼんやりと考えた。アラディーンの魔法道具が判明した時点で、目的は果たされたはずだ。しかし一向に、ジャワードの追憶から抜け出す気配がない。


(まだなにか見せたいものがあるのか)


 そういえば自分は、ジャワードに「アラディーンのことが知りたい」と願ったように思う。アラディーンの魔法道具を知りたい、ではなく。なぜそんな願い方をしてしまっただろうかと考えて、「アラディーンのことが知りたいか」と直前にジャワードから問われたからだと思い出した。


(まさか、わざとか?)


 その可能性は十分にある気がして、バタルは内心で天を仰いだ。


 しかし正直、今見せられているジャワードとアラディーンのこの先が非常に気にはなった。ジャワードと対照的に真面目で正義感が強いらしいアラディーンが、一体どういった経緯で魔王と呼ばれるに至るのか。今のところ、ジャワードの方がよほど悪党じみている。


(もう少しだけ、つき合うしかないか)


 そう考えて、バタルはまどろむようにくつろぐジャワードの五感に身を委ねた。

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