第53話 皇后のこわいもの

 感慨もなく侍女を目で追いながら、淳皇后は「わたしが恐れるのはね」と口にし、本来の話のつづきを語る。


今世こんせの悪行が来世に影響をおよぼすかどうかよ。あなたたちのような修行者を害したら、あまりに徳がない気がするでしょう?」


 思いがけない理由に、万明玉たちはぼうぜんとした。

 しかし、本心からだったらしい。証拠に淳皇后の顔からは笑みが消えている。

 理由がわからない万明玉が困惑していると、柳毅が「なるほど」と言って、つぶやいた。


「宗教家を手にかけるのは、皇后であってもためらわれるか」


 助かりそうだとわかり、元気がでてきたらしい。楊冠英は「どういう意味です?」と兄弟子にたずねる。

 ほほ笑んで、柳毅が弟弟子に答えた。


「この世のすべてを手にいれても、生老病死は克服しがたいのだよ。皇后の気のながれを見てみなさい」


 うながされるままに万明玉たちは淳皇后を見、彼女の気のながれに意識を集中した。すると、すこし見ただけで彼女の気が弱々しいとわかる。途端、万明玉は柳毅の考えに気づき、国師の話をする際に淳皇后が手をあわせていたのを思いだす。同時に、自分の言った言葉も脳裏によみがえった。


『縁起だの、功徳をつんで来世に幸福をもたらすだの、馬鹿げていますよね』


 ――口では迷信と笑っていたけれど、ほんとうは死とその先の来世を恐れているんだ。


 思いいたった瞬間、万明玉は言うべき言葉に気づいた。すぐさま「皇后さま」と呼びかけると、彼女はうやうやしく拝礼して告げる。


「わたしどもをお救いくださり、ありがとうございます。皇后さまの善行をきっと天も見ておいででしょう。わたしも自由の身にしていただくあかつきには、恩人である皇后さまの善行を天に知らせるため祈祷いたします!」


 思ってもいない言葉をあげつらい、万明玉は淳皇后をほめたたえた。


 ――どんなに祈祷しようと無駄だ。彼女の信じる仏教の教えにのっとるなら、彼女が生まれかわるのはまちがいなく地獄だろう。


 万明玉の言葉が決定打となった。淳皇后は満面の笑みでうなずくと、万明玉たちに沙汰をくだす。


「柳毅、あなたがこのまま孝王として生きるのなら、わたしはそれを阻止したりはしない。その体にながれる血は、まちがいなく皇族の血ですからね。それに、万明玉。あなたが孝王妃でいつづけるのもかまわない。もちろん地位を捨て、もとの方士の道にもどるなら、それも助けましょう」


 万明玉たちが想像していたのとは、まったくちがう判決だった。

 最後に、淳皇后は言う。


「話はこれでおしまい。あとは、あなたたちの好きになさいな」


 そう言うと、淳皇后はこほこほと咳をした。


 ◆


 その日の万の屋敷は、まっ赤だった。

 天井には赤い布が飾られ、照明も赤い提灯。豪華な吊るし飾りも赤い『喜』の文字であふれている。

 たくさんの客が見守るなか。まっ赤な衣装に身をつつんだ花婿と花嫁が、屋敷中央の庭園を表座敷にむかって歩いていく。


「すてきな結婚式ね」


 万府のむかいの屋敷の屋根のうえから婚礼の儀を眺め見て、万明玉が言った。

 万明玉のかたわらで柳毅が「ああ」とおだやかにあいづちする。


 今日は万明玉の姪、ばん楽瑶らくようの結婚式だ。万楽瑶は結局、孝王には嫁がなかった。彼女は、想い人がいると父親に打ち明けたのだ。そして、想い人のほうでも、万楽瑶に好意があったようで結婚話はとんとん拍子で進み、今日の日にいたった。


 後宮での騒動からは、数か月がたっていた。

 楊冠英は自由の身になるとすぐ、師匠である左隠君のもとへ帰った。本来なら柳毅と万明玉も、弟弟子と帰るべきだっただろう。しかし、ふたりには孝王と孝王妃としての立場もある。そのため、身うごきがいまだにとれず、偽夫婦をつづけていた。

 今は『孝王夫婦が参加できるほど豪華な式はできない』と弟の万正風に婚儀への参加を断られ、しかたなく遠くから結婚式を見守っている。


 はなやかな婚礼を眺めながら、万明玉は「ねえ」と柳毅に声をかけてたずねる。


「曲春華は、どうしてるの?」


 柳毅も万府に目をむけたまま「まだ自室に引きこもっているらしい」と答えた。

 驚くでもなく「あれからずいぶんたったけど、まだ立ちなおれないのね」と、万明玉はつぶやく。そして、すっと目をほそめて言った。


「皇族になりたいとか、初恋だとか。あこがれだけで、彼女は孝王のそばにいるのだと思ってた。でも、ちがったみたい。彼女は、結婚の約束をかわした武俊煕をほんとうに愛しく思っていたんだわ」


 柳毅は「そうだな」とうなずき、やさしい声で「しばらく、そっとしておこう」と口にする。

 目のまえの幸せいっぱいの婚儀と曲春華の境遇とがあまりにもちがいすぎて、万明玉は複雑な気もちになった。自然と彼女の口から言葉がこぼれでる。


「愛が本物でも、成就するとはかぎらない。お互いに想いあって結ばれるって、とても幸運なのかも……」


 最近のさわぎが頭をよぎり、万明玉は言葉をにごした。


 ――曲春華もだけれど、玥淑妃のあの結末も愛ゆえだ。それに……


『皇帝陛下でしょうか?』


 楊冠英の答えに、淳皇后が楽しそうに笑ったすがたを万明玉は思いだした。


 ――淳皇后も幸福な愛をえているとも思えない。そして、彼女の死期はおそらくちかい。李薫児と李桑児にいたっては、すでに亡くなっている。


 ふっと疲れたため息をこぼすと、万明玉は言う。


「幸運にも、小瑶シャオヤオは愛する人と結婚する。彼女には花婿と共に白髪が生えるまで幸せに暮らしてほしい」


 万明玉は心からのねがいを口にした。

 柳毅は「そうだな」とあいづちし、万明玉にたずねる。


「そういえば、万楽瑶はこの結婚を父君に直談判したんだって?」


 万明玉は「ええ」とうなずき、くすくすと笑うと「小風も小瑶の熱意に負けたみたい」と応じた。

 万明玉につられ、柳毅も笑って言う。


「自分の意思をつらぬく勇気がある。わたしとは大ちがいだ」


 兄弟子の言葉を冗談にとらえた万明玉は「なにを言ってるの?」と言い、笑いながら指摘した。


「自分の体を捨ててまで他人を守ろうとする人のほうが、よほど勇気があるわ」


 万明玉は、にこやかに首をふる。そして、思った。


 ――つよくて、やさしいひと。そんな師兄がわたしは大好きだ。


 われ知らず、万明玉は笑みをふかくする。

 ところが、柳毅はバツが悪く感じているらしい。彼は「すなおに言ってしまえば」と苦笑いして言った。

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