第36話 逃げたさきで待っていた者
「でも、ここには氷と食べ物がすこしあるだけ。あとは、ぬすむ価値もないガラクタしかない。わざわざ盗人がはいる意味もないだろう」
「そうだけど」
ありがたい話だ。宦官たちは仮氷室を重要施設だとは考えていないらしい。声や足音から半信半疑で気のりしない様子がうかがえる。
「わたしが門番たちをひきつけます。その隙に師姐は逃げてください」
楊冠英が姉弟子に指示した。
万明玉は「だめよ」と、弟弟子の提案を拒否する。
しかし、姉弟子に拒否されても楊冠英は考えをかえなかった。彼は「言ったでしょう?」と口にし、自分が囮になる理由を語る。
「師姐が捕まると困る人がたくさんいるんです。捕まるなら、わたしのほうがましだ」
言いきった楊冠英だったが、ひさびさに明るい声をだすと「もちろん、捕まる気はありませんけどね」とも言った。
門番たちはたいまつを持っているのだろう。階段付近がにわかに明るくなる。
同時に楊冠英が門番たちにとびかかった。彼はまず門番たちのもつたいまつを蹴りとばす。するとたいまつは部屋の最奥までとばされ、万明玉たちのいるあたりはうす暗くなった。
「行って!」
門番たちと格闘しながら、楊冠英が万明玉にむかって叫ぶ。
とまどいつつも、万明玉は階段を駆けのぼり建物のそとにでた。幸運にも、そとに人影はない。彼女は気力のとぼしい体で、もと来た道を必死に駆けもどった。
柳毅のこと、楊冠英のこと。考えたい事柄はたくさんある。しかし、柳毅の死の衝撃があまりにも大きすぎた。彼女はどんな考えもまとめきれない。なにも考えられないのに、自然と涙があふれだし、彼女の視界をうばう。自分が捕まるわけにはいかない。それだけは理解でき、彼女は走りつづける。走りつづけるしかできなかった。
涙で息がしずらい。後宮の外壁にたどりついたときには、万明玉ははあはあと肩で息をしていた。
――とにかく、そとに出なくては。
満身創痍ではあったが最後の力をふりしぼった彼女は、後宮と外界とをへだてる塀のうえにはいあがった。しかし、それが精神的にも体力的にも彼女の限界。彼女は塀のうえでへたりこんでしまう。
そのときだ。
「妻殿」
自分を呼ぶ男の声を耳にし、万明玉はどきりとした。声は後宮の外側から聞こえ、彼女はおそるおそる声のしたほうを見る。
後宮の外まわりの道には、一定間隔ごとにたいまつで明りとりがされていた。そうは言っても夜道で、視界がいいとは言えない。多少視線をさまよわせ、万明玉は最終的に自分の真下に目をむけた。
すると、後宮のそとの道から万明玉を見あげる武俊煕のすがたが目にはいる。彼は手に布づつみをもっていた。
万明玉は涙声で「孝王殿下」とつぶやく。同時に、悲しみしかなかった彼女の心が小さくうずいた。
自分を見おろす万明玉の泣き顔を見た武俊煕は、目をまるくし、たずねる。
「その顔……いったい、なにがあったんだ?」
しかし、万明玉と武俊煕は話していられなかった。
「くせ者だ! 不審者を見つけしだい捕らえよ!」
警戒の声を耳にした武俊煕は一瞬、眉をよせる。彼は「まずいな」とつぶやくと、あたりをさっと見まわした。それから手にしていた布づつみを地面におくと、腕をひろげて万明玉に言う。
「とびおりろ! だいじょうぶ、受けとめるから」
悲しみが深すぎるせいだろうか。そうすべきとわかっているのに万明玉の体はうごかなかった。
うごけずにいる万明玉に、武俊煕は「おねがいだから」とやさしく懇願する。
その瞬間。武俊煕を見る万明玉の目がわずかに見ひらかれた。
――わたしがかたくなな態度をとると、柳師兄もよくこんな顔をしていたっけ。
ふたりの見た目はまったく似ていない。そうであるのに万明玉には武俊煕に柳毅がだぶって見えた。その瞬間。自分にむかって両手をひろげる男の腕のなかに万明玉はとびこむ。
落下してくる万明玉を武俊煕は言葉どおりにしっかりと受けとめた。そして、丁寧な動作で彼女を立たせると、自分の着ていた上着をすばやく彼女に着せる。
それとほぼ同時だった。
「そこにいるのは誰だ!」
言いながら、たいまつをもった警備兵が走ってくる。
武俊煕は万明玉を抱きよせ、隠した。
「なにごとだ」
普段どおりの落ちついた態度で、武俊煕が警備兵にたずねる。
「後宮へ忍びこんだ不審者をさがしている。おまえたちは夜ふけになにをしている。答えられよ」
言葉から警備兵がうたがいをもっているとわかった。警備兵は手にしたたいまつで万明玉を照らしだそうとする。
しかし、武俊煕が万明玉を自分と後宮の塀の間に押しこみ、さらに隠した。
万明玉をかばいながらも武俊煕の態度はかわらない。警備兵にむかい飄々と「後宮へ? なんとおそれ知らずな」と応じてみせた。
重々しく「そうだ」とうなずいた警備兵は「とにかくおまえとおまえのつれの身分を……」と言いかけ、目をまるくする。
「こ、孝王殿下!」
手にしたたいまつで武俊煕の顔を照らし、警備兵は驚きの声をあげた。
武俊煕は「わたしの顔を知っていたか」と言い、警備兵にほほ笑みかける。
警備兵はしどろもどろになって「し、失礼しました」と謝罪すると、おずおずとたずねた。
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