第37話 偽夫と弟弟子の対立

「殿下。こんな夜ふけに、なにをされているのですか?」


 問われた武俊煕はほほ笑みをふかくした。たいまつの赤い光に照らされた彼の容貌は、明るい場所で見るのとはちがった趣がある。

 同性であるはずの警備兵も、武俊煕の笑みに見とれているらしい。彼を見るうち、うっとりとした表情になった。


「夜の宮廷のうつくしさを話したら、妻が見たいと言いだしてね。夫婦で散策していたのだが、夜風にあたりすぎたらしい。妻は気分を悪くしてしまった。もう帰ろうと思っていたところだ」


 普段なら話す機会もない高貴な麗人を目前にし、夢心地なのかもしれない。警備兵は「そうですか」とあいづちこそしたが、放心状態だ。

 心ここにあらずの警備兵に、武俊煕が親しげにたずねた。


「もう行ってもいいだろうか? はやく妻をつれ帰りたいのだ。まさか、わたしを不審者とはうたがわないだろうね」


 武俊煕にたずねられ、警備兵はわれにかえる。


「も、もちろんです! 失礼いたしました」


 警備兵はあわてて謝罪すると、不審者をさがすのだろう。そそくさと去っていった。

 去っていく警備兵をしばらく目で追ったあと、武俊煕は背後を見る。そして、万明玉にたずねた。


「警備兵の言っていた不審者とは、妻殿だね。いったい、後宮でなにをしていた? なぜ泣いているんだ?」


 矢つぎばやに武俊煕が質問する。

 警備兵から隠れるため、万名玉は武俊煕の背にしがみついていた。彼の背に顔を隠したまま、彼女は「話したくない」と首をふる。

 武俊煕はため息をこぼし「そうはいかない」と口にすると、つづけた。


「後宮へ許可なく侵入するのは重罪だ。これでも、わたしは危険をおかし、ここにいるんだよ」


 罪を盾にして、真実を話させたいのだろう。武俊煕が強い口ぶりで言う。

 すると「じゃあ」と言い、投げやりに万明玉が応じた。


「わたしを罪人として告発すればいい。死罪なんて恐くない。あなたが告発するなら、罪に問われるのはわたしだけでしょう?」


 万明玉の自暴自棄な言動に困惑し、武俊煕は「馬鹿を言わないでくれ」となだめる。彼は彼女を自分から引きはなし、むかいあわせになった。

 万明玉は「馬鹿じゃない。本気よ」と主張し、また大粒の涙をぽろぽろとこぼしだす。


「妻殿? おねがいだから、泣かないで」


 対処に困り、おろおろと万明玉に懇願する武俊煕の背後で「おい!」と威嚇じみた声がした。

 武俊煕はびくりとし、おそるおそるふりかえる。そして「おまえか」と、うんざり顔で言った。


「師姐を泣かせるな!」


 武俊煕の視線のさきには、腕ぐみして武俊煕をにらみつける楊冠英のすがたがある。

 武俊煕は、疲れたため息をついた。しかし、楊冠英の登場に驚いてはいない。彼は地面においていた布づつみを拾いあげ、その布づつみを楊冠英に投げわたした。

 うけとりはしたがあやしんで、楊冠英は布づつみの中身をそっとのぞき見る。

 楊冠英が布づつみを確認するなか。万明玉の肩を抱きよせて、武俊煕は無実を主張した。


「わたしが泣かせたわけではない。むしろ、なぜこんな状態なのか教えてほしいよ」


 ついに布づつみをといた楊冠英は、苦々しい顔をして侍女の装束を取りだす。着がえろとの意図とわかったが、従いたくもないし、準備のよさに驚きもしたらしい。

 眉をよせる楊冠英にたいして、武俊煕は言葉をつづけた。


「宮廷じゅうが警戒態勢だ。どんなに武術にたけていて身軽でも、逃げきるのは難しいぞ。無事に逃げたいなら着がえろ」


 武俊煕の話は正しいと感じたのだろう。しぶしぶ木陰にはいると、楊冠英は侍女すがたに着がえる。

 楊冠英の準備を待つあいだ、武俊煕は万明玉の様子を観察した。

 涙をながしつづける万明玉の足は、ふらついていてあぶなっかしい。万明玉が歩けないと判断した武俊煕は、彼女をあらためて抱きかかえた。

 気力のない万明玉はされるがままだ。


「おまえ、師姐をはなせ!」


 侍女すがたに着がえおわった楊冠英が文句を言う。


「妻殿は今、歩ける状態じゃない。侍女すがたのおまえが抱きかかえるのもおかしい。こうして宮廷をはなれるのが最善の手なのだよ」


 またも正論を言われ、楊冠英は「ぐっ」とうなるしかできなかった。

 いきどおる楊冠英に、武俊煕が「ついてきなさい。急げ」とするどく言いつけ、歩きだす。

 苦虫をかみつぶした顔の楊冠英も、武俊煕のあとにつづいて歩きだした。

 武俊煕が歩くのにあわせ、万明玉も彼の腕のなかでゆれる。それは、居心地の悪いゆれ方ではなかった。むしろ力強い腕に抱きかかえてもらう今の状態には、心強ささえ感じる。


 ――あたたかい。


 歩く振動と同時に、武俊煕の体温がつたわってきた。悲しくはあるが、彼女は徐々に落ちつきをとりもどす。涙も自然ととまり、まわりに気をくばる余裕がでた万明玉は、武俊煕の背後につきしたがう楊冠英を見た。


 ――楊師弟、無事だったのね。


「よかった」


 楊冠英の無事なすがたを見て、思わず万明玉はつぶやく。

 万明玉の声に気づき、武俊煕は腕のなかの彼女にむかって語りかけた。


「疲れただろう? あとはわたしに任せて、すこし眠りなさい」


 なぜかはわからない。しかし、武俊煕の言葉に大きな安心感を万明玉はおぼえる。武俊煕の言うとおりで、万明玉は精神的にも体力的にも疲れきっていた。彼女はひとつうなずくと、大人しく目をとじた。そして、泥のように眠りこんでしまう。


「にゃあ」


 眠りにつく直前だった。

 万明玉は、遠くで猫が鳴く声を耳にした。

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