第31話 追う者と逃げる者

 庭園のなかを走るうち、こちらにむかって走ってくる人のすがたが見えた。身につけている衣装と体つきから女だとわかる。そのうちに顔も視認できるようになった。


「小華!」


 武俊煕がこちらに走ってくる従妹に呼びかける。


「お従兄さま!」


 走る勢いそのままに、曲春華が武俊煕の胸にとびこんだ。

 突然に、しかも勢いよく曲春華が抱きついたせいで、武俊煕は曲春華を抱えこむかたちで受けとめるしかない。その様子はまるで、情熱的に抱きあう恋人同士のようだ。

 明らかな不可抗力。もちろん万明玉にもわかっていた。ところが、抱きあう武俊煕と曲春華を見た万明玉の胸はずきりと痛み、彼女は自分で自分に驚く。


 ――わたし、どうかしてる。柳師兄の話をして傷ついたくせに、冷たくせっしたばかりの偽の夫に嫉妬でもしているの?


 万明玉は動揺したが、そうしてばかりもいられない。なぜなら曲春華の駆けてきた方角から黒装束の人物が走ってきたからだ。顔は装束とおなじ黒の手巾でおおい隠しているが、体格から男とわかった。


 ――あの格好……婚礼の日に孝王府で襲ってきたのと、おなじ人物?


 万明玉の直感は、今まで彼女を襲ってきたのと同一人物であると言っている。しかし、こんなところにいるとは信じられず、万明玉は自分の勘をうたがった。

 万明玉が黒装束の男に注目していると、彼女を守るつもりなのだろう。侍女すがたの楊冠英が姉弟子のまえにとびだし、体術のかまえをとる。もちろんだが、黒装束との戦闘を意識してなのはまちがいなかった。


 楊冠英が戦闘態勢をとったのはただしい。万明玉はちらりと武俊煕に目をむける。

 自分の胸に顔をうずめて震える曲春華を、武俊煕は困り顔でなだめていた。

 抱きあう武俊煕と曲春華を再度見た万明玉は、やはりいい気はしなかった。そうはいっても今の曲春華には、万明玉や黒装束の男はまったく見えていないとも、彼女には判断できる。


 ――曲春華を気にする必要はない。


 懐に隠しもっていた呪詛やぶりの御符を、万明玉はさっと取りだした。


 ――婚礼の夜にであった怪異は、呪詛やぶりの御符にふれて青い炎をあげた。今回もこの御符が効くなら、目のまえの人物は以前に会ったのと同一人物と考えてまちがいない!


 黒装束の男は、しっかりとした足どりで万明玉たちにむかってくる。

 男との距離をはかりながら、万明玉は小声で呪文を唱えた。唱えおわると同時に、彼女は呪詛やぶりの御符を男に投げつける。

 男の顔めがけて、御符がとんだ。

 男はひらりと御符をさけた。しかし、わずかながら接触したらしい。男の横をすり抜けた瞬間、御符は青い炎をあげ、男の顔を隠す布に飛び火した。火を消そうとしたのだろう。黒装束の男は顔のあたりを手ではらう。すると、顔を隠していた布がはがれ落ちた。男の顔があらわになる。

 目鼻立ちははっきりし、整った顔立ちだ。目尻があがった切れ長の目は涼しげ。濃い眉には清潔感があり、雄々しい美しさのある男だった。


「え?」


 黒装束の男の顔を見た万明玉は驚きのあまりぼうぜんとし、うごきをとめてしまう。


「どうしました?」


 万明玉の異変に気づき、楊冠英が疑問の声をあげた。

 そのときだ。


「あやしいやつめ! 何者だ!」


 警備の宦官だろう。だれかが警戒の声をあげる。途端に周囲がさわがしくなった。

 さわぎに気づいた黒装束の男は、万明玉たちにちかづく足をとめる。逃げると決めたのだろう。男は、庭木のしげみにとびこむと走り去った。


「待って!」


 逃げだす黒装束の男を見て、万明玉はハッとする。彼女は男にむかって叫んだ。

 当然だが、彼女のねがいに黒装束の男は応えない。男はそのまま走り去り、すがたを消してしまった。


 ――今の人……


 見た光景が信じられない万明玉は、黒装束の男が消えた庭木の茂みを見つめ、立ちつくす。


「孝王殿下。こちらに賊が来ませんでしたか?」


 血相をかえた宦官たちが走ってきて、武俊煕にたずねた。

 武俊煕は「ああ」と応じる。彼は自分に抱きついたままの曲春華をあらためて見て、宦官たちに状況を説明した。


「曲家の令嬢が不審な者に襲われたのだ」


 そこまで言うと、万明玉が見つめる庭木のしげみをゆびさし、武俊煕は「しげみの奥に逃げていった」と告げる。


 宦官たちはおたがいに顔を見あわせ、うなずきあった。そして「追います!」と言い、黒装束の男が走り去った方角にむかい、駆けだす。

 宦官たちを無言で見おくった武俊煕は、曲春華の肩を押して彼女を自分からはなした。曲春華の青い顔をのぞきこみ、彼はたずねる。


「小華、だいじょうぶか? どうして後宮へ?」


 すると、武俊煕の着物をきつくにぎったまま、曲春華は震える声で答えた。


「玥伯母さまの寝宮にお邪魔して、帰るところだったの。そうしたら、襲われて……侍女たちとも、はぐれてしまって……」


 おそろしさで、混乱しているのかもしれない。曲春華の話はとぎれとぎれだ。

 曲春華の話に、楊冠英はうんざりして眉をよせると「また、孝王殿下に嫁ぎたいと、淑妃さまにたのんでいたのでしょうか?」と、万明玉に話しかけた。

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