第30話 縁きりの試み

「記憶をなくしたと、あなたは言うけど。まったくおぼえていないの? なんでもいい。おぼえているなら教えて!」


 武俊煕に歩みより、万明玉は問いただした。

 万明玉につめよられ、武俊煕は驚いて目をまるくする。しばし彼女を見つめた彼は、そっと眉をよせて話しだした。


「当時のわたしは、大けがをおって瀕死ひんし状態だった。そのあと、けがが原因の高熱もだしてね。熱が原因だろう。それまでの記憶をすべてなくしてしまったんだ」


 なんの手がかりもえられず、万明玉は落胆する。しかし、記憶をなくした武俊煕もふびんだと感じ「記憶喪失なんて、たいへんだったわね」と、同情した。

 万明玉の気づかいの言葉に、武俊煕はほほ笑む。彼は「だいじょうぶだ」と口にし、さらに話をつづけた。


「とくに不便は感じていない。記憶をなくした当時のわたしは八歳。なくして困るほどの記憶もなくてね。困ると言ったら、小華と結婚の約束をした記憶がない点だな」


『お従兄さま。子どものころ、妻にしてくれると約束しましたよね?』


 曲春華が言った言葉を思いだしながら、万明玉は「そうなの」と短くあいづちする。

 武俊煕が「妻殿。話をもどすが」と口にし、万明玉にたずねた。


「あの時の方士が妻殿の師兄なんだね。つまり、彼が行方不明になって十五年。妻殿はずっと、彼を探しているのか?」


『大師兄が行方不明になって、もう十五年ですよ。そろそろ、あきらめては?』


 武俊煕の言葉に、楊冠英が以前に言った言葉がかさなる。


 ――孝王も、あきらめろって言いたいの?


 勝手な推測だが腹がたつ。万明玉は「わるい?」と、武俊煕にかみついた。

 機嫌の悪さは伝わったはずだ。しかし武俊煕はおだやかに「いいや」と言い、歩みを再開する。

 万明玉と楊冠英も、武俊煕のあとに付きしたがって歩きだした。

 歩きながら、武俊煕が言う。


「十五年もさがしつづけるんだ。妻殿の師兄は、よほどいい男なのだろうと思ってね」


 明るい武俊煕の声が背中ごしに万明玉の耳にとどく。

 武俊煕の言動から、万明玉は冷やかしを感じた。彼女を気にいっていると隠さない男だ。妬いているのかもしれない。


 ――挑発にのって言い負かせば、わたしへの気もちも冷めるかも。


 ずっと孝王妃でいる気のない万明玉は、彼のあとを追いながら「まあね」と応じると、話しだした。


「内功、外功、軽功、それに剣技。どの修練もだれよりもすすんでいて、武将を思わせる精悍せいかんで男らしい人だった。師兄は完ぺきなの」


 柳毅の優秀さを語るうち、自分の話でもないのに万明玉は誇らしい気もちになる。

 すこし間があき、武俊煕は進行方向をむいたまま「そうか」と返事をして彼女にたずねた。


「すてきな人がいると婚儀の夜に妻殿が言っていたのは、その師兄だったのだろうか?」


 柳毅の好ましく思う点を列挙し、高揚していた万明玉は幸せな感覚にひたっている。愛する人を思う彼女は、歩く武俊煕の背中にむかい「そうよ」と明るくはっきりした声で告げた。

 やはり進行方向をむいたまま、武俊煕は「もうひとつ、たずねても?」と口にし、さらに問う。


「その兄弟子と妻殿は、もしかして恋仲なのか? たとえば、婚姻の約束をしたとか……」


 たずねにくく感じたのかもしれない。武俊煕は言いきらず、言葉をにごした。

 思いがけない質問に、ぎくりとした万明玉は黙りこんでしまう。


『親もない孤児のわたしには、もったいない良縁だ。婚姻をむすばない理由がないよ』


 失踪する数日前に柳毅が言った言葉が万明玉の頭をよぎる。

 万明玉の変化に気づくわけもなく、武俊煕は話つづけた。


「結婚の約束でなくても、わたしなら愛する人にずっとそばにいてほしい。その兄弟子は妻殿に、そばにいてほしいとでも言ったのだろうか? そんな約束でもないと、十五年もさがせない気がするんだが」


 武俊煕の言葉に、万明玉はまたぎくりとする。今度は過去の自分のねがいを思いだしたのだ。


『今生で柳毅とだれよりも長い時間をともにするのは、この万明玉なのだから!』


 ――師兄が婚姻をのぞんだのは、わたしではなかった。それに、彼といっしょにいたいとねがったのもわたし。わたしは好きだったけど、師兄はわたしを好きだと一言も言っていない。


 自分の柳毅への気もちが常に一方通行だったと思い知らされ、万明玉の目がしらが熱くなる。

 返事を期待してだろう。武俊煕が「妻殿?」と万明玉に呼びかけた。

 しかし、自分のみじめさに打ちのめされた万明玉は、武俊煕に答えられない。


 ――もう、こんな話はやめてよ!


 心のうちで叫んだ万明玉は、ようやく「どうして」と口をひらきかけた。


 ――どうして、そんな話をするの?


 しかし、言いたかった言葉を万明玉が口にできない事態がおこる。


「きゃあッ!」


 ちかくで女の甲高い悲鳴が聞こえたのだ。

 万明玉、武俊煕、楊冠英の三人は足をとめ、顔を見あわせた。そして、申しあわせたわけでもないが、悲鳴が聞こえたほうへ全員が駆けだす。


 悲鳴は庭園から聞こえてきたようだ。万明玉たちは内西路からはずれ、庭園のなかに足をふみいれた。

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