第十章 幸福につながらない願望

第38話 結果と過程

 眠りこんでいた万明玉は、あたたかく柔らかな感触を額に感じ、ふと目を覚ました。同時に、見なれた寝台の天蓋が見え、枕もとに座って万明玉を見つめる武俊煕のすがたも目にはいる。

 目覚めた万明玉に、武俊煕が話しかけた。


「目が覚めたか。もうすこし眠っていてもいいぞ」


 やさしい武俊煕の声に、万明玉は返事をしない。寝ぼけたふりをして目を閉じ、彼の言うとおりに眠りなおしてもよかった。しかし、ひらいた目をもう一度とじるのを、彼女はためらってしまう。


 ――目をとじたら、見たくもない光景が目のうらにうかびそう。


 考えた途端に結局、後宮の仮氷室で見た柳毅の顔を思いだした。胃のむかつきをおぼえた万明玉は「うッ」と吐き気をもよおす。横たわったままの彼女はうずくまり、その目からはぽろぽろと涙がこぼれた。

 涙をながす万明玉に驚きもせず、武俊煕はだまって彼女の背をやさしくなでる。そして、言った。


「苦しいだろう。つらい経験をしたのは、楊冠英から聞いて知っている」


 ――楊師弟、仮氷室でのできごとを孝王殿下に話したの?


 顔色を青くし、万明玉は眉をよせた。

 万明玉が弟弟子をうたがっていると気づいたらしい。武俊煕は「彼を責めないでくれ」と言い、事情を説明する。


「後宮に忍びこむのは重罪だと、わたしが脅したんだ」


 だまったまま、万明玉はよせた眉をゆるめた。

 武俊煕は万明玉の顔にかかる髪をそっとはらい、さらに話をつづける。


「こんなにも衰弱して……柳毅は妻殿にとって、よほど大きな存在なのだな」


 ――でなきゃ、十五年もさがしたりしない!


 心のなかで、万明玉は返事をした。すると、涙がまたあふれる。泣き顔を隠そうと、彼女は頭まで布団をかぶった。

 すると武俊煕が「うらやましいな」と、ぼそりとつぶやく。

 武俊煕の言いぶんに納得できず、怒りがこみあげる。もぐりこんだばかりの布団から勢いよく顔をだし、万明玉は飛び起きると叫んだ。


「うらやましい? どこが?」


 万明玉の剣幕に、武俊煕は一瞬たじろぐ。しかし、すぐに温和な表情にもどると「すまない。怒らせるつもりはなかった」と謝罪し、視線を手もとにおとして語りだした。


「さがし求め、死を知って心から悲しんでくれる人がいる。そんな彼を幸せな人だと思ったんだ」


 武俊煕はいったん言葉をきる。それから、手もとにおとしていた視線を万明玉にむけ、彼は「それに、妻殿も幸せな人だ」と口にした。

 眉をよせ、万明玉は「わたしも?」と困惑する。

 武俊煕はうなずくと、さらに話をつづけた。


「長い年月ひとりの人を愛しつづけ、そして追う人生もまた、うらやましく思うよ」


 万明玉は一瞬とまどったが、気をとりなおし「でも、手にはいらなかった」と低い声で反論する。

 すると、武俊煕は「結果はだいじだ。だが、結果とはいったいなんだろう?」と首をかしげ、万明玉にたずねた。


「恋におちた瞬間? 愛する人と相思相愛になったとき? それとも婚姻したときだろうか?」


 どれも正解で、どれも不正解に万明玉には思える。答えられず、彼女は黙りこんでしまう。

 万明玉が答えないとみると、武俊煕はさらに語った。


「人生は結果の連続。もしくは結果はつぎの結果までの過程とも、わたしは言えると思う。そして、妻殿が愛する人にめぐりあった結果を、わたしはうらやましいと感じた。それだけだよ」


 なぜかはわからない。武俊煕の話を聞くうち、しずみこんでいた万明玉の心はすこし軽くなった。話す気力ももどってきて、彼女は小さな声で言う。


「あなたにも、追いかけてくれる人がいるじゃない」


 武俊煕は「小華か?」と口にすると、苦笑いして言った。


「小華はたいせつだ。だが、あくまでも従妹としてだ。それに彼女がわたしに執着するのは、皇族の地位や子供時代の約束へのあこがれも大きいだろう」


 言って、武俊煕は自嘲気味にうすく笑った。

 武俊煕の言動を見るうちに思うところがあり、万明玉がたずねる。


「さみしいの?」


「すこし」


 武俊煕が答えた。

 万明玉はさらに問う。


「以前は、ちがった?」


 みじかい応答はそこでとだえ、武俊煕は目を見ひらいた。そして、ひらいた目をやさしくほそめると「そうだね」とあいづちし、彼は言う。


「妻殿に出会って……妻殿が必死に兄弟子をさがしていると知らなければ、こんな気もちを知りもしなかっただろう。だから」


 武俊煕はひと呼吸をおき、あらためて万明玉をじっと見つめた。彼は真剣な表情で彼女に告げる。


「妻殿に思われる柳毅がうらやましい。彼となりかわりたいほどに」


 武俊煕の言葉の意味がわからない。返事ができない万明玉は、目をまるくして彼を見つめかえした。

 武俊煕も万明玉から目をはなさない。彼は彼女の手をとり「妻殿」と呼びかけ、つづけた。


「すべての問題が解決したら、ほんとうの妻になってほしい。柳毅よりも大切にすると約束するから」


 思いがけない武俊煕の言葉に、万明玉はどきりとする。

 答えを待つ武俊煕は、万明玉を見つめつづけている。

 驚きで息をするのもやっとの万明玉は、苦心して問いかえす。


「本気なの?」


 万明玉にうなずき、武俊煕は語った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る