第39話 そばにいてほしい人
「はじめて出会った日から、妻殿を忘れた日は一度もない。会うたび、よろこびに胸がはずんだ。そのきみが、わたしの花嫁としてあらわれた。わたしはきっと、前世でよほどの功徳をつんだにちがいない」
真剣に語る武俊煕を見つめるうち、古道のある深い森で万明玉に駆けよる彼の笑みを彼女は思いだした。われ知らず、胸が高鳴る。
――わたしが、孝王殿下の本物の妻に? だけど……
ときめく心をおさえ、万明玉は視線を重ねあう手に落とすと話しだした。
「人々を救うため、みずから妖怪退治におもむく。
――柳師兄も義侠心にあつくて、物事の本質を見ようとする人だった。孝王殿下の申し出をうれしく思うのは、きっと彼の人柄が師兄に似ているからだ。だから……
武俊煕の手から自分の手をそっとはなし、万明玉は告げる。
「ごめんなさい。あなたの妻にはなれない。すべてが解決したら、ここを去るわ」
万明玉は淡々と断った。断りの言葉をつむぐたび、彼女の胸はじくじくと痛む。
すこしの沈黙があり、武俊煕は苦しげに視線をさまよわせた。しかし、彼は食いさがりはせずに「そうか。わかった」とだけ口にし、寝台から立ちあがる。そして、言った。
「では、わたしも書斎で休むよ」
――行ってしまう!
うつむいていた万明玉だったが武俊煕をあおぎ見て、思わず「あの!」と声をかける。
願いを無下にされたのに、武俊煕は「どうした?」と万明玉にやさしくたずねた。
――もうすこし、ここにいて。
ねがったのは本心だ。そうはいっても、妻にはなれないと断った万明玉に、それをたのむ資格はない。しかたなく、彼女は「なんでもない」と首をふった。そして「おやすみなさい」と口にし、布団のなかにもぐりこんだ。布団にもぐりこむ万明玉の耳に、武俊煕の声がとどく。
「ゆっくりお休み。柳毅の件は、おそらく後宮にもかかわりがある。もうすこし落ちついてから、どうすべきかをいっしょに考えよう」
そう言いおいて、武俊煕は夫婦の寝室をあとにした。
寝室の扉がしまり、武俊煕の足音はゆっくりと遠ざかっていく。
――目覚めるまで、わたしのそばにいてくれた。孝王殿下はやさしい人だ。なのに……
罪悪感がわきあがり、万明玉は布団のなかで身をちぢめた。
――わたしは彼に迷惑をかけてしまう。だけど、この気持ちはとめられない。
温かさがもどりかけていた万明玉の心に、冷え冷えとした感情がふきこむ。そんな彼女は思いを新たにし、怒りに燃えた。
――柳師兄にあんな仕打ちをした者を、わたしは決して許さない!
万明玉は後宮でおこったできごとを思いかえす。
仮氷室には護衛がいて、だれもがはいれる場所ではなかった。しかも、魂魄がないとはいえ、大人の男を隠していたのだ。できる人間はおのずとかぎられるだろう。
『後宮のなかでは、なんでもわたしの思いのままなのよ』
考えるうち、淳皇后の言葉が万明玉の頭をよぎる。
――淳皇后ならば仮氷室に人間を隠すのも、可能だわ。
淳皇后を疑わしく感じるのと同時だった。曲春華が言った言葉も、彼女は思いだす。
『きっと淳皇后一派の嫌がらせよ!』
万明玉はこれまでに見聞きした情報を考えあわせた。
淳皇后と玥淑妃は、それぞれ皇位継承権のある皇子の母だ。淳皇后が玥淑妃と武俊煕の親子をうとましく思っていてもおかしくない。
そして、万明玉をふくめた武俊煕の花嫁候補たちを襲ったのは、おそらく柳毅だ。ところが、彼の体には魂魄がなく、亡くなっているも同然。そんな彼から方術の気配がした。魂魄のない柳毅の体を、だれかが方術であやつっているのはまちがいないだろう。その柳毅は、十五年前に武俊煕を襲った妖怪を追い、先日まですがたを消していた。
つまり、今も十五年前も、武俊煕に関係した人たちが被害をこうむっているのだ。
――まちがいないわ! 怪異さわぎはすべて、あの人につながっている!
確信した万明玉は、低く怒気をはらんだ声色でつぶやいた。
「淳皇后がわたしから師兄をうばったんだ!」
◆
後宮から逃げだした数日後。
姪の
「おひさしぶりです」
応接室にはいるなり姪が万明玉にあいさつする。不安げな表情の彼女は、ちらちらとまわりを警戒した。
万明玉は「
楊冠英は万明玉の意図をさっし、ほかの侍女たちに部屋からでるよう言った。
部屋のなかにいるのは万明玉、万楽瑶、楊冠英の三人になる。
気をつかう必要がなくなり、表情をゆるめると万楽瑶が伯母にたずねた。
「こちらでも怪異にあわれたと聞きました。伯母さま、だいじょうぶでしたか?」
表情こそゆるめたが、心配なのだろう。万楽瑶はさぐる視線を伯母にむける。
万明玉は「問題ないわ」と笑ってみせた。
しかし、信じきれないらしい。万楽瑶の表情はくもったままだ。
万明玉は「ほんとうよ」と言い、努めて明るい口ぶりで姪に語りかける。
「花嫁が怪異にあう件は解決しそうなの。だから、あなたはもうすぐ孝王に嫁げるわ」
『ほんとうの妻になってほしい』
姪に朗報を告げた途端。武俊煕の言葉が万明玉の頭をよぎった。
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