第三章 困難だらけで愛のない縁談

第7話 秘境には不似合いな珍客

「おひさしぶりです」


 応接室にはいるなり、中年の男があいさつした。彼は拱手きょうしゅの作法で頭をさげる。


 男がいるのは、大倫国でも有数の山ぶかい聖地。いくつもの峰がつらなり、樹齢数百年の巨大な木々が天空にとどくいきおいでそびえ立っている。あたりに響くのは動物の鳴き声と、風が木々のあいだを吹きぬける音ばかり。ようするに秘境なのだった。

 人の行き来がほとんどない場所であるのに、どうやって建てたのかはわからない。野外に闘技場をそなえた立派な屋敷が、ぽつんと一軒だけ建っていた。その屋敷の後方には、豪快にながれ落ちる滝の水流が見え、あちこちから霧がたちのぼっている。

 男がいるのは、そんな風変わりな屋敷の応接室だ。


 まるまると太った体をゆらし、男は顔をあげる。彼は金糸の刺繍のはいった仕立てのいい着物をまとっていて、長くのばした髪は頭の高い位置で団子型にまとめあげていた。団子髪には精緻せいちな銀製の髪冠を飾っていて、ひと目見ただけで彼が良家の家長に準ずる人間だとわかる。秘境にいる人物としては、かなり場ちがいな風貌といえた。


 男があいさつしたのは、応接室の最奥に鎮座するふたりの人物だ。左の席の人物は長く白いひげをたくわえ、白い衣装に身をつつんだ小さな老人で、この屋敷の主人である仙道士の左隠君さいんくん。そして右の席には、彼の一番弟子であるばん明玉めいぎょくが、清潔感のあるうす緑色の着物すがたで品よく腰かけている。

 木製の肘掛椅子に座っている仙道士ふたりの背後の壁には、たのしそうに笑う三人の老人が描かれた掛け軸がかかっていた。


 万明玉は軽やかに席からたつと、男にちかづいて話しかける。


「弟よ。元気そうで、この姉は安心しました」


 男のぽっちゃりとした手をとり、万明玉はほほ笑んだ。この場面を絵に描くなら、うつくしい娘が太ったおじさんの手をにぎる図になるだろう。しかし、ふたりの会話のとおりで、万明玉と男は、じつの姉と弟だ。男はばん正風せいふう。万明玉が左隠君の屋敷に帰りついて数日のち。連絡どおり、さっそく姉をたずねて来たのだ。


「姉上も元気そう……どころか、うつくしく若いままだ!」


 万正風は驚きの声をあげた。仙道士の修練のたまもので、万明玉は若さと長寿を手にした数すくない人間だ。そんな彼女を頭の先からつま先まで、じっくりと眺めた彼は、さらに言葉をつづける。


「十代と偽っても、うそと気づく人はいないよ。うちの娘にも負けない!」


 ――やけにほめるのね。


 貴族ならよくある話だが、万明玉と万正風は腹ちがいの姉弟だ。そうはいっても、おたがいに関係をわりきっていて姉弟仲は悪くはなく、かつ親密すぎもしなかった。

 つまり、自分をほめちぎる弟など見たためしがなく、万明玉は違和感をおぼえずにいられなかったのだ。それに、万正風の体格と気風は山奥にやってくるには、あまりにも不向き。彼が率先してたずねてきたとは、彼女には思えなかった。よって、彼女は「ありがとう」と笑いかけながらも、裏があるとあやしんだ。


 姉の手をはなすと、万正風はつぎに左隠君に目をむける。

 小さな体の老人、左隠君は椅子にちょこんと座り、姉弟のやりとりを静かに見守っていた。

 左隠君の目前に歩みよった万正風はもう一度、拱手の礼をつくして頭をさげる。


「とつぜんの来訪を許してくださり、ありがとうございます」


「かまわないよ。おまえたちの父親は、わたしの親友。親友の子なら、わが子もおなじだ。おまえが元気だと知れて、うれしく思うよ」


 ほそい目をさらにほそくし、左隠君はおだやかに言った。


「左隠君もお元気そうで、なによりです。むしろ、初めて会った子供のころから、なにひとつかわらない。かわったところをさがすほうが難しいかもしれません」


 言いおえると、万正風は頬の肉をふるわせて「あはは」と笑う。

 左隠君も万正風につられ、まっ白なひげをゆらして「ふぉふぉ」と笑った。


 万正風はただしい。人々から左隠君と呼ばれるこの人物は数十年ずっと、長く白い眉毛とひげをもつ小柄な老人のすがたをしているのだ。

 ある意味で年齢不詳の左隠君は神秘的な存在だった。ところが、本人はただの仙道士だと言ってきかない。ただ、弟子をふくめた周囲の者は全員、彼は名のある仙人であろうと考えていた。


 万正風と左隠君がなごやかに笑いあうなか、万明玉が「ところで」と話の矛先をかえる。


小風シャオフォン。あなたに会うのは、父上が亡くなって以来ね。急に近況を聞きたくなって、こんな山奥をたずねた……なんてわけ、ないわよね?」


 親しみをこめ『万正風』を『小風』と呼ぶ万明玉の顔は笑っているが、不信感をいだくせいだろう。彼女の声はかたかった。

 万明玉の指摘は図星だったらしい。笑みを苦笑いにかえると、弟はうわ目づかいで姉を見て言う。


「さすがは姉上。じつはね……」


 身内同士の話がはじまると気づき、左隠君が「席をはずそうね」と言って、椅子からたちあがろうとした。

 すると、万正風は慌てて「左隠君。どうか、あなたも聞いてください」と懇願する。


 ――師父にまで聞いてほしいなんて、いったいどんな話をする気なのかしら?


 万明玉と左隠君は困惑し、自然と顔を見あわせた。

 そんな不穏な空気のなか、万正風は「ふたりにぜひ、助けてほしいんです」と言い、姉にむかって言う。


「姉上。皇族に嫁いでくれないか?」


 応接室のなかに、しばし沈黙が満ちた。


「は?」


 左隠君と万明玉がほぼ同時に疑問の声をあげる。


「わたしが嫁ぐ? 皇族に?」


 驚きのあまり思考停止していた万明玉だったが、苦労して短い疑問を口にした。

 すると、すかさず万正風が「そう」と神妙にうなずいて、彼は生まじめな表情をぱっと笑顔にかえて言う。


「しかも、側室じゃなくて正妻だよ!」


 弟は、うれしそうに待遇の情報をつけくわえた。

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