第32話 猫がはいりこんだ場所

 曲春華の悪口を言う楊冠英の声は大きかった。曲春華の耳にもとどいたようで、彼女は楊冠英をじろりとにらんだ。

 曲春華と楊冠英のやりとりを見て、武俊煕は困り顔でため息をこぼす。しかし、気を取りなおして言った。


「とにかく襲われたばかりだ。ひとりにはできない。暇乞いをしたばかりではあるのだろうが、いっしょに母上の寝宮にいこう」


 楊冠英をにらむのをやめ、武俊煕を見ると曲春華は従兄にすなおにうなずいてみせる。

 曲春華の同意をえた武俊煕は、万明玉を見て「妻殿。それでいいかな?」と、彼女に意向をたずねた。

 しかし、万明玉に武俊煕の声はとどいていなかった。彼女はまだ、ぼうぜんと立ちすくんでいる。

 不審がった楊冠英が「だいじょうぶですか?」と、万明玉の耳もとで呼びかけた。

 万明玉はハッとわれにかえると、ようやく「え、ええ」と動揺しながらも応じる。彼女は楊冠英にむきなおり「あの人……」と言いかけた。しかし、つぎの言葉を口にするのをためらい、結局は口をつぐむ。そして、ほんのすこし考えをめぐらせた彼女は、あらためて口をひらいた。


「曲のご令嬢もつれて、淑妃さまの寝宮に行くのね」


 念押しをよそおってごまかした彼女は「わかったわ」とうなずき、武俊煕たちとともに玥淑妃の寝宮にむかって歩きだす。

 すると突然、しげみがざわりとうごいた。そこは、さきほど黒装束の男がとびこんだ場所だ。

 いくぶん緊張しながら、万明玉たちはしげみをじっと見つめる。

 すると、黒装束の男ではなく、淳皇后の飼い猫がとびでてきた。猫はちらりと万明玉たちに視線をよこしたが、すぐに進行方向をむくと、彼らの前をとことこと歩きだす。偶然だろうか。猫は万明玉たちの目的地の方向へすすんだ。

 猫に先導されて庭園を歩き、四人は玥淑妃の寝宮付近の出口にちかづく。そのうちに既視感のある光景を目にし、彼らは思わず足をとめた。


 ――あれは淳皇后。それに……


 お付きの侍女たちをつれた淳皇后の視線のさきを追うと、ひとりの侍女がいた。その侍女は以前、淳皇后に注意をうけていた李桑児の姉だ。

 また淳皇后に小言をもらったのかもしれない。李桑児の姉は身をちぢめ、玥淑妃の寝宮にはいっていく。


 ところで、淳皇后のすがたを見て万明玉たちは足をとめたが、猫はちがった。猫はどんどんと淳皇后にちかづき、彼女の腕のなかにとびこんだ。驚きもせず、淳皇后は猫の背をやさしくなでながら歩きだす。侍女たちも彼女のあとにつづいた。

 歩きだした直後、淳皇后がこほこほと咳をする。


 ――また咳。風邪が長引いていてるのかしら?


 万明玉がいぶかしんだ直後だった。飼い主の咳に驚いたのだろうか。淳皇后の腕にとびこんだばかりなのに、その腕から猫がとびでてしまう。そして、玥淑妃の寝宮の真向かいにあたる塀にとびのり、塀のむこうの敷地にはいっていく。

 飼い猫が気まぐれに行動しても気にならないようで、淳皇后はそのまま歩き去ってしまった。


「あの猫、どこにでもはいっていくんですね。猫がはいったのは、どなたかの寝宮でしょうか?」


 はなれていく淳皇后の背中を見おくりながら、よう冠英かんえいがだれにとはなく疑問を口にする。

 すると、ようやく落ちついたらしい曲春華が「あそこは寝宮ではないわ」と、楊冠英の推測を否定した。彼女は言葉をつづけた。


「日あたりが悪くて、夏でも肌寒い場所なの。だから、仮氷室につかわれてるの。昔は冷宮だったようで、だれも近よりたがらない場所なのよ」


 言いおえた曲春華は、武俊煕の袖をひき「あんな気味の悪い場所、今は見たくもない。はやく玥伯母さまのところに行きましょう」と、青い顔でせがんだ。

 気が弱っている曲春華の言いぶんをむげにはできないのだろう。武俊煕は曲春華にしたがい、玥淑妃の寝宮にむかって歩きだした。

 しかし、万明玉はうごきださない。彼女は猫の消えた塀を見つめて、つぶやく。


「氷室」


『氷室で見つけました』


 口にすると同時に、孝王府で楊冠英が翡翠の飾り玉を見つけたのを、万明玉は思いだした。


 ――孝王府にも氷室があった。しかも、氷室を不審に思ったのは黒装束の男に襲われたあとだ。あまりにも状況が似すぎていない? それに、あの黒装束の男の顔……


 黒装束の男の顔を思いだした途端。心に愛おしさ、喜び、疑念などさまざまな感情がわきあがり、万明玉は心のうちで動揺する。彼女は思わず自分自身を抱きしめ、着物をきつくにぎった。

 うごきださない万明玉を奇妙に思ったのだろう。武俊煕が「妻殿、行こう」と声をかけてくる。

 楊冠英も心配して万明玉を見つめていた。

 また物思いにふけってしまったのだと万明玉は気づく。しかし、今はだれにも自分の心のうちを語るべきではないと彼女は考えた。よって、何事もない態度を努めてよそおった万明玉は「ええ」と返事をし、しっかりとした足どりで歩きだす。


 ――後宮のなかで言うべきじゃない。黒装束の男が見知った人物だったなんて……


 とつぜん気丈にふるまいだした万明玉を見て、武俊煕はそっと眉をよせた。

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