第五章 嘘で結ばれた虚構の夫婦

第15話 紅い蓋頭のなかの宮廷

 ――まさか宮廷で婚礼の儀をおこなうなんてね。


 縁起のいい赤い花嫁衣装を身につけた万明玉は、おそれおおくも目のまえにいる大倫国の皇帝をまじまじと見た。

 玉座に泰然たいぜんと座す皇帝は、がっしりとした武人のごとき体の持ち主だ。

 皇帝から見て右隣には、ほっそりとして着飾った女性が姿勢よく腰かけている。おそらく彼女が皇后なのだろう。


 ――蓋頭がいとうが邪魔で、どんな顔をしてるかまでは見えないわね。でも……


 万明玉の言葉にある『蓋頭』とは花嫁がかぶる赤い絹の布だ。この蓋頭は夫婦が寝室にはいり、夫がはずすまでは脱がないのが習わし。よって、花嫁すがたの万明玉は蓋頭ごしにまわりを見るしかなく、すこぶる視界が悪かった。しかし、この視界の悪さには利点もあると、彼女は早々に気づく。


 ――逆にいえば、まわりの人にもわたしの顔が見えない。そうでなければ、こんなにじっくりと皇帝陛下を見たりできないわ。


 結婚式の最中にもかかわらず、万明玉は花婿ではなく皇帝と皇后を興味深く見ていた。

 なぜ花婿に興味がわかないのか。それはもちろん、となりに立つ男は万明玉を偽の花嫁だと知っているし、万明玉も王妃として長居するつもりはないからだ。ようするに、すぐに別れるであろう花婿より、宮廷の内情を見るほうが彼女には面白かったのだった。


 ひとしきり皇帝を見た万明玉は、注意を結婚式の来賓にむける。

 婚姻の儀を宴会とでも思っているのかもしれない。婚礼への関心はそこそこに、来賓たちは飲み食いに興じている。

 観察するうち、この宴会を一番楽しんでいると思われる人物に気づき、万明玉はため息をついた。


 ――小風シャオフォンたら……


 万明玉の目にとまったのは弟、ばん正風せいふうだ。ふくよかな体格のため、顔を見なくとも弟とわかる。彼は姉には目もくれず、飲食を楽しんでいた。


 ―― いいきなものね。


 あきれながら、万明玉はほかに視線をうつす。

 すると飲み食いには目もくれず、万明玉と花婿を見ている人物がひとりだけいると気づいた。背筋をピンとのばした彼のすがたは、婚儀を厳粛にうけとめているとみえる。しかし、その人物のいる場所は、今日の主役である万明玉たちから一番遠かった。視界の悪い万明玉には、その人物が男だとしかわからない。

 万明玉が遠い席の観察を断念したときだ。


「にゃあ」


 突然、足もとから猫の鳴き声がして、驚いた万明玉の注意は床にむいた。すると、彼女の赤い婚礼衣装にすりより、万明玉を見あげる猫のすがたが目にはいる。足元のため、蓋頭ごしではない。


 ――茶色い猫……いいえ、白や黒の毛がまじっている。あまり見かけない猫ね。


 めずらしい色あいの猫だと感じ、万明玉は思わず見いった。


「ああ」


「皇后さまの猫よ」


 猫の存在に気づき、侍女たちがさわぎだす。すると、ざわめきは湖面の波紋のごとくまわりに波及し、さわがしくなった。

 本来なら花嫁である万明玉に注目が集まる場面であるのに、猫がその場の注目をさらってしまう。

 しかし、当の猫は注目などものともしない。のんびりと万明玉を見たかと思うと、彼女からすっとはなれた。猫はちかくの招待客たちのなかへまぎれこむと、酒の肴をねだりだす。


「陛下。神聖な婚儀が……」


 皇帝の背後に立つ老人が、あせりをふくんだ声色でうかがいをたてた。彼は身なりや年齢、立ち位置から考えて宦官。しかも宦官の長である太監であろうと、万明玉にはさっしがつく。

 皇帝が太監に応じて、初めて声を発した。


「かまわん、好きにさせておけ。婚儀など、ただの通過儀礼だ」


 ふつうの花嫁なら、皇帝の言葉に失望しただろう。しかし、万明玉は偽の花嫁であったし、皇帝の言いぶんが案外嫌いではなかった。


 ――そうね。猫が邪魔したからと言って、天命がかわるわけでもないでしょう。


 万明玉とおなじ心境なのか。皇帝の意向にしたがったからか。人々は本心がどうあれ、猫に注目するのをやめる。

 もう猫を目で追っているのは蓋頭で顔を隠した万明玉だけだ。


 皇帝の言葉がわかるわけもない猫は、わがもの顔で広間を歩きまわった。どんどんと万明玉から遠ざかる猫は、ついに行儀よく婚礼を見守る男のそばまでたどり着き、彼にすりよる。

 すると、男は初めて姿勢をくずし、なれた手つきで猫をなでた。

 まんざらでもないらしい。猫は男の横に座りこみ、しばらく大人しくなでられつづける。しかし、ふいに立ちあがると、ふらふらと広間をよこぎって歩きだす。猫は万明玉のわきをとおりすぎると、皇后にとびついた。

 急にとびつかれるのは、日常茶飯事なのかもしれない。皇后は猫を胸のまえでそっと抱くと、背をなではじめる。


 ――これって、皇族の婚姻の儀よね?


 一連のできごとに、万明玉はあきれた。しかし、裏声じみた独特の高い声で「父母に拝礼」と太監が言ったので、万明玉はハッとわれにかえる。となりの花婿にあわせ、万明玉は皇帝と皇后のまえにひざまずいた。そして、扇を両手でかかげ持ち、うやうやしく頭をさげる。


「夫婦はたがいに拝礼」


 また、太監の声がした。

 侍女に介添えしてもらいながら立ちあがると、万明玉は花婿のほうをむく。花婿も立ちあがり万明玉とむきあった。むかいあったふたりは動作をあわせ、おたがいに頭をさげあう。


 こうして、小さな疑問やトラブルをかかえつつも、婚礼の儀はつつがなくおわったのだった。

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