第48話 救うべき人

 これまで曲春華には手を焼かされた。しかし、憔悴する彼女に兄弟子をなくしたばかりのころの自分をかさねた万明玉は、複雑な心境になった。どう行動すべきか迷い、万明玉はじっと曲春華を見つめる。すると、万明玉の耳に「万師妹」と彼女を呼ぶ、武俊煕の声がとどいた。

 武俊煕の呼びかけに応じ、困りはてた万明玉が彼を見る。

 さりげなく万明玉にちかづくと、武俊煕は彼女に耳打ちした。


「このまま李侍女の逃亡を許しても、曲のご令嬢は助からないだろう」


 おなじ考えにたどりついていた万明玉は、かえす言葉もなく目を見ひらく。

 だまりこむ万明玉を見て、武俊煕はやさしくほほ笑むと話をつづけた。


「自分で言うのはおこがましいが、わたしの体は鍛えあがっていて利用価値がある。逃げおおせても李侍女は、あの体を手ばなさないだろう。あの体を生かすために、曲のご令嬢の生気をうばうにちがいない。令嬢をつれて逃げるなど、足手まといでしかないからね」


 武俊煕の話を聞きながら、万明玉は魂魄のない柳毅に目をむける。うつろな目の柳毅が曲春華を羽交いじめにしているすがたが、彼女の目にうつった。万明玉は小さくも苦々しい口ぶりで「そうかもしれません」と兄弟子の言葉を肯定する。しかし、きつく眉をよせると「でも」と、言いよどんだ。


 ――曲春華をうばいかえすには、呪詛やぶりの御符が一番だ。あれがはりつけば、方術つかいの命令もとだえる。だけど、柳師兄の体は呪物としてきっと燃えあがって焼失してしまう。体が無事なら、師兄はもとの体にもどれるかもしれないのに……


 迷う表情をみせる万明玉に、武俊煕はなおも語りかけた。


「魂魄のはなれたわたしの体は、本来なら土にかえっていたはずだ。それなのに昔のままなのは、あの体を生かすために生気をうばわれた多くの人がいるからだ」


 武俊煕が自分に語りかける意味が理解でき、万明玉はハッとする。そして、彼女はあらためて武俊煕にとまどいの視線をおくった。

 すると、武俊煕はほほ笑みをふかくして言う。


「見るべきはわたしではない、曲のご令嬢だ。師妹、あの娘はこのさわぎになんの関係もないのだよ。わたしはこれ以上、関係のない人が傷つくのを見たくないんだ」


 武俊煕にうながされ、万明玉はあらためて曲春華を見た。


『お従兄さまとは結婚の約束をした間柄よ!』


 曲春華の憎らしいほど勝ち気な面影は、今の彼女には最早ない。そこにあるのは、結婚の約束をした人の死を知って悲しみにくれる若い女のすがただけだ。


 ――師兄の言うとおりだ。あの娘はじゅうぶんに苦しんでいる。これ以上、傷つく必要はない。


 万明玉はぎゅっと唇をかんだ。そして、隣にたたずむ武俊煕に語りかける。


「師兄、ごめんなさい。わたし、師兄の体をとりもどせそうにない」


 ふるえる声で万明玉が言う。

 万明玉とは反対に、武俊煕は明るく「いいんだ。覚悟はできている」と笑った。しかし、すこしだけ困った顔になると「だが、師妹は」と言い、万明玉にたずねた。


「あの体でなければ、わたしをわたしとは認めてくれないだろうか?」


 兄弟子に質問された万明玉はすぐさま「いいえ!」と、大きく首をふって主張する。


「どんなすがたでも、師兄は師兄だわ!」


 涙声ではあるが、万明玉はきっぱりと言った。彼女の頬をひとすじの涙がながれる。

 万明玉の涙を、武俊煕はみずからの指でそっとぬぐった。そして、おだやかな口ぶりで彼は告げる。


「では、きみが思ったとおりにすればいい」


「はい!」


 兄弟子に返事をするやいなや、万明玉は着物の懐から呪詛やぶりの御符をとりだし、柳毅にむきなおる。


「この呪文の要旨を諒解し、早急に律令のごとくに行なえ!」


 万明玉はまじない言葉をとなえると、護符をすばやく投げた。

 曲春華を羽交いじめにしていてうごけない柳毅の額に、万明玉の投げた護符がはりつく。同時にぼっと大きな音がして、護符から青い炎があがった。

 火がつき、方術つかいの命令もとだえたのだろう。柳毅の体勢が大きくゆれ、曲春華をしめあげていた腕もゆるむ。

 万明玉はこの機会を逃さずに柳毅の腕を鉄棍棒で殴りあげ、曲春華をうばいとった。


「ああ、方士さま!」


 玥淑妃が甲高い悲鳴をあげ、炎につつまれる柳毅によろよろとちかづく。


「淑妃さま、駄目よ! 焼け死んでしまうわ!」


 曲春華を抱えた万明玉が叫んだ。

 しかし、玥淑妃の歩みはとまらない。最終的に、彼女は勢いよく燃えあがる柳毅の体に抱きついた。

 あまりの事態に、その場にいる面々の意識は玥淑妃にむく。しかし、李薫児だけはちがった。ぼうぜんとする人々のあいだをすり抜け、彼女は仮氷室の階段下まで走り逃げる。そのとき、李薫児はどさくさにまぎれて麻袋を手にとった。長年放置された麻袋はやぶれやすくなっていたのだろう。彼女が力をいれると、ビリビリと音を立てて麻袋は簡単にやぶれた。同時に、仮氷室のなかに大量の粉塵がまった。


『酒に乾物。それに、しびれ薬?』


 粉塵を見た途端。この仮氷室に調査におとずれたときに、楊冠英が言った言葉を万明玉は思いだす。


「しまった! あれは、しびれ薬よ! ぐ……」


 警告の言葉を発した直後。万明玉は倦怠感に襲われ座りこんだ。彼女のまわりの人々も、くずれるがごとく座りこみはじめる。


 ――こんなに大量のしびれ薬を吸ったら……


 死を意識した万明玉のかすむ目に、階段をのぼろうとする李薫児のすがたがうつる。同時に、彼女の耳に苦しげな淳皇后の声が聞こえた。


「ま、待ちなさい! 逃がさ……ないわ! よざ……く……ら。李薫児を……ばっしな……さい……」


「にゃあ」


 淳皇后の声がとだえてすぐだ。万明玉は猫の鳴き声を聞いた気がする。しかし、彼女の意識はそこでとぎれてしまった。

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